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雑記帳(過去ログ)
2018-11-16 の記事 - 2018-11-16
変わるWindowsのアプリ戦略 UWPからデスクトップアプリに原点回帰か

(問)あなたの会社は、PC向けOSで高いシェアを持っています。一方、スマートフォンなど携帯端末向けでは存在感を発揮できていません。この分野で存在感を発揮し、シェアを獲得するためにはどのような方法を取るべきでしょうか。
(答)PC向けOSのユーザーインターフェイス、及びアプリケーションの自由度をスマートフォン並みに劣化させる

こんなもの失敗して当たり前
スマートフォンの市場がほしいと考えるのは自由です。魅力的な製品を作るなり、開発環境を整えるなり、好きにしたらいい。しかし、なぜそんなもののために、もともとのPCユーザーがUIやアプリケーションの劣化を受け入れなければならないのか
結果、スマートフォン事業は成功せず、おまけにUWPやよく分からないUIに対して不満が噴出することになります。もともとスマートフォンではシェアが低いのに、PC向けアプリケーションをスマートフォン並みに劣化させてもPCユーザーや開発者がそんなものを使うわけもなく、誰が使うのか分からない状況になるのは必然です。
しかもStoreがまたとてつもなく不便。そもそも有用なソフトウェアが十分にそろっていないのもそうですが、仮にそろっていたとしても上手くはいかないでしょう。自由なPCに慣れたユーザーが、あんな刑務所の運動場のようなもので満足するわけがありません。あれはスマートフォンだからこそ機能しているのです。

デスクトップアプリケーションへの回帰は当然として、個人的にはスマートフォンに引きずられたゴミUIの一掃も希望したいところ。
もともとスマートフォンのUIは、画面領域や入力方法などが限られ、一方で多種多様な入力・出力デバイスへの対応はあまり考えなくてもよい中で効率よく操作するために作られているのであって、PCにそれを持ち込んだとしても最適なものとはなり得ません。
ユーザーの使用思想にも違いがあり、スマートフォンはデフォルト設定でパッパと動き、設定も容易かつ簡素で、難しい部分は隠蔽されている方が好まれるのでしょうが、PCではある程度細かく設定ができ、ユーザーが動作を十分コントロールできることが好まれます。
とにかくWindows 10のスマートフォン的な部分にはかなり足を引っ張られている感があり、これがすべてなくなるだけでも使い勝手はかなり向上するのではと考えています。OSのUIは当然として、Windows 10でUWP化された標準プログラムも全部元に戻してもらえると非常に助かります。
劣悪さの究極系としてはEdgeが良い例。Microsoftはまだ自社でブラウザを作る気なら、いい加減Edgeはゴミ箱行きにして、最低でもIE並みの機能とUIは備えたブラウザを開発すべきです。あれは到底PCで使うようなものではありません。

不適切投稿 青森市議当選の山崎氏「辞職も検討」

即刻辞職すべきです。
国政の自民党があまりにもヘイトまみれで、全員ヘイト内閣の異常ぶりもあり、感覚がマヒしてしまいそうなところですが、これは本来絶対に見逃せない問題です。
国会議員にせよ地方議員にせよ、議員とはいわば国や自治体のシステムを作ったり書き換えたりできる立場です。そのような人間が差別思想、つまり属性に基づいて人間の価値や尊厳を否定したり、ある属性は別の属性に劣るといった思想に基づいて活動したらどうなるか。当然、国家または自治体のシステムとして差別が行われることになります
ひとたびそのようなシステムを認めてしまえば、もう歯止めが利きません。たとえ最初は自分がシステムによって排除されなくて済んでいたとしても、システム的な排除を認めてしまっている以上、いずれは自分の番がやってきます。そうなってから文句を言っても遅いのです。
ヘイト国会議員も含めて、こういう輩には必ずお引き取りいただかなくてはなりません。

9条に専守防衛の理念を 立民山尾氏、改憲議論提唱

なぜこうもセンスがないのか。

この考え方自体は十分理解できますし、その方向性自体が悪いとは考えません。私もどちらかといえばこれに近い考えを持っていました。
が、しかし。それはあくまで現状追認の上でそれ以上を認めないという、憲法による制限を強化するための手段なのであって、違憲の安保法制が登場した時点で事実上意味のない考え方と化しているのです。
もしそれをやりたいのであれば、少なくとも違憲の土台の上に憲法改正を築くことはできませんから、違憲法制を完全廃止するのが先ですし、それまでは憲法を変える議論を提唱するなど(軍事とは一切関係ない部分で、国家権力を明らかに強く縛る方向に変えることを除いては)到底あり得ません。まして緊急事態条項など民主主義を完全に破滅させる案が出されている状況ではなおさらです。

なお、私はかねてから憲法は改正してよいと考えています。ただ、同時に自民党と日本会議を日本から消滅させるまでは改憲論を封印せねばならないと考えているだけ。この連中が日本に存在する限り、自らの改憲論を主張して我を通そうとするよりも、立憲主義を守る方を優先すべきであることくらいは分かります。
山尾氏もいい加減、その程度は理解しては。それすら理解する気がないのなら、「立憲」民主党はおやめになり、改憲大日本党でも立ち上げたらよろしい。立憲主義を尊重した上での積極的改憲派から徹底した護憲派まで、多様な市民が小異を捨て、自論をとりあえず凍結してでも手を取り合い、立憲野党を応援している意義を理解できないのなら、氏はいずれ必ずその足を引っ張ることになるでしょう。

2018-11-11 の記事 - 2018-11-11
安倍政権による移民政策。当然、私はその一切に反対です。
理由は簡単で、奴隷の取引は多様性の尊重と真っ向から対立する行為だから。多様性の尊重の観点から、日本で暮らしたい外国の人々が日本に来るのは大歓迎ですが、例えば白人が黒人奴隷を連れて来ることを多様性の尊重とは言いません。相手の人権や尊厳を認めないのは、多様性の否定でしかありません。
制度的な公正性が担保され、社会の差別を解消する方向に動くことがなければ、それは労働者の権利や社会の平穏などはもとより、何よりもまず多様性の観点から否定されなければなりません。

そもそもこの移民政策、はっきり言って悪魔との契約に他なりません。
安倍氏や現在の自民党の主要な支持層といえば、一つは財界と称する奴隷商人、もう一つは差別主義者です。これが自民党を走らせている車の両輪であり、しかも日本ではこの両者は非常に相性が良いのです。
財界としては自己責任論、生産性論は非常に都合がよく、そして差別主義者は障碍者やLGBT差別を正当化するために生産性論を用い、他人を攻撃するために自己責任論を多用します。財界からの搾取を受けている人間は、その不満を財界や政権にぶつけるよりも、より弱い被差別者をそのはけ口として利用するため、財界にとっては一石二鳥。しかも財界の人間にも差別主義者は少なくありません。また自民党はこの両者を混ぜて煮詰めたような存在であり、事実上この2つを分離することはできなくなっています。
強いて言えば、安倍氏はヘイト寄り、小泉進次郎氏は奴隷商人寄り、といった程度でしょうか。ただ、安倍氏は無賃残業合法化や奴隷取引などに注力し、小泉氏も自民党の異常な差別に対して戦うわけでも離反するわけでもないため、本質的な違いはありません。

この両方の集団に共通するのは、他人の人権や尊厳などゴミ以下としか考えていないという点です。
財界は平然と人間を使い捨てにしてきており、その結果が相次ぐ過労死や労働問題、不正、壊滅的な貧困などによって身動きが取れなくなりつつある今の日本です。外国人労働者よりも立場が強いはずの日本人ですら、彼らにとっては使い捨てのパーツでしかありません。
また、差別主義者は街角での「○○人をぶっ殺せ」、インターネット上でのジェノサイドの扇動などを日常の光景としてしまい、書店にまでおぞましい本が並ぶようになりました。人を人とみなしていれば、このようなことはできません。
差別主義者による、例えば「チョウセンヒトモドキ」というような蔑称、あるいは京都朝鮮学校襲撃事件の「約束というのはね、人間同士がするもんなんですよ。人間と朝鮮人では約束は成立しません」といった発言などは、差別主義者が実際に被差別者を人とみなしていないことを端的に物語っています。
ここへ移民と称する奴隷を連れてきたらどうなるか。彼らを虐待すればするほど、搾取がしたい財界は大喜びし、自民党を支持するでしょう。また、彼らを虐待すればするほど、差別がしたい差別主義者もまた大喜びし、自民党を支持するでしょう。もとより人を人とみなしていない連中のこと、ここに歯止めなど存在しません
当然、日本の悪評は国外に広がるでしょうし、連中の大好きな歴史戦とやらでも「今ですら奴隷取引をしているような国が、昔は身ぎれいだったなどと主張している」と鼻で笑われて大敗北をするだけです。日本に奴隷階層を作り出そうとする試みは社会のひずみを生み、後になって徐々に噴出してくるでしょう。財界と差別主義者のくだらない娯楽のために払わなければならない代償は、決して小さくはありません。

ところで最近気がかりなのは、排外主義者に対してはどんな形であれ移民制度は評判が悪く、しかし生命線の北朝鮮は融和に動いてしまい、頼みの中国にも「中国包囲網」なるトチ狂った大妄想を放棄して友好をアピールする状況に陥ったことから、安倍政権や自民党が韓国ヘイトへの回帰を強めている傾向がうかがえる点。
この状況が続けば、またしても愛国者の皆様が「なでしこアクション」や「The Facts」、慰安婦像足蹴並みの大活躍をやらかして、日本の評判と品位を地の底まで叩き落とすのではないかと危惧せざるを得ませんし、またも差別を扇動されるとあっては在日などのマイノリティにとって迷惑千万もいいところでしょう。

国民民主党、新キャッチフレーズ発表も足元揺るがす問題に直面

それはそうでしょう。
民主主義の回復、差別の否定のためならば、私は泥水でも腐れ水でも飲むつもりでいます。例えば立憲民主党については、演説で筋金入りのレイシストである小林よしのりを呼んでくるわ、肝心なところで相乗りするわでかなり腹が立っていますが、それでもこれくらいの泥水ならば(小)選挙区では飲んでも構いません。少なくとも小林氏を否定しない限り、衆院比例で入れるつもりはありませんが。
しかし、国民民主党となると別です。野党共闘候補ということで必死で応援し、多数の市民の尽力で何とか議席を獲得させてやったとして、その議席を使って裏切られてはたまったものではないからです。

現状、野党が分散すればヘイト政権・政党に漁夫の利を与え、レイシズムと民主主義否定の嵐が吹き荒れることになります。したがって争っている状況は好ましくありませんが、これを利用して国民民主党が共闘の中で良いポジションを占めようと画策し、共産党以下の支持率でありながら共産党にハラスメントを仕掛け、立憲野党・市民に対して譲歩を迫り、おまけにその議席を丸ごと政権アシストのために使ったらどうなるか。
与党や維新といった明確なヘイト勢力と違い、正面から戦うこともできない。かといって、味方にすれば重要な部分をごっそり奪った上で裏切りかねない。そもそも小池ヘイト党に魂を売り渡そうとした連中の成れの果てなのですから、ヘイト側について差別を推進し始めても全く不思議ではない。好き勝手に新しい判断、もとい新しい答えを出されては困るのであり、一言で言えば「邪魔」なのです。
民主主義を取り戻したい、差別を解消したいと願って投じた1票が、民主主義を破壊し被差別者を踏みにじるための武器として使われるとしたら、これほどバカげたことはありません。
しかもこの状況下で、自民党との会合なんぞの騒ぎまで起こす。会合をやると言い出して立憲市民・野党を激怒させ、寸前で幹部の出席を取りやめて自民党まで怒らせる。ある意味で人を怒らせる才能があるというかなんというか。わざわざ両方を怒らせるなど安倍外交でもあるまいに、そもそも何がしたいのかさっぱり分かりません。本来なら自民党にでも引き取ってもらえれば一番ですが、杉田氏のような驚愕モノのレイシストを引き入れ、壮絶なヘイト内閣まで組閣した自民党からすれば、差別をやる気があるのかないのかも分からない連中などいらないでしょう。つまり、どの立場からも鼻つまみ者。
この調子できっと立憲市民をもカンカンに怒らせるような暴挙に出るのは見えています。

2018-11-02 の記事 - 2018-11-02
なぜ起きた?弁護士への大量懲戒請求

これ。前半はそれなりによくできていると言っていいでしょう。

どこからどう見ても異常なことばかり主張しており、弁護士らは外患誘致で死刑に相当するとまで言う狂気のヘイトブログ。それを信じ込み、書いてある通りに懲戒請求をかける人々。ところが、反撃を受けたことで反省している者はいるものの、どいつもこいつも差別を反省している様子は全くない。そして当の余命は「個人の判断でやってるんでしょ」「責任を感じるわけない」と日本しぐさ。
懲戒請求をした者にせよ、あおった者にせよ、どちらも異常者としか言いようがない連中であり、これをありのまま報道すればそのまま強力な問題提起となります。どうして安倍政権に対してそれをしないのかは知りませんが
そういう意味で、これがマスメディアの報道、それもバラエティではなくドキュメンタリーで流れた意義は大きいといえるでしょう。

ただし、問題は後半です。なぜここからこのような結論に持っていくのかが理解できません。
まずはまたしてもエコーチェンバー論を唱える辻大介氏。「両極側」とのことですが、本件は民族浄化を扇動するような狂気のヘイトブログを信じ込んだ差別主義者が、懲戒請求とはいかなるものであるかをまるで調べもせず、自らの差別意識を満たすために懲戒請求を行った、というものであり、この話に「両」極など出る幕はありません。どうしてここで「両」極、すなわちこんな狂気の行いをするような者の「対」となる存在が必要なのでしょうか。
この分では、いわゆる両極のみならず、穏健派なるものも極の一つであり、それもまたエコーチェンバーによって自説を強化する存在であるという事実には、未だにたどり着けていない模様。本件の場合、余命ブログは例えば民族浄化を扇動していて、反差別側は当然民族浄化など否定していますが、ここでどちらの極にも属さないようにすると、「余命ブログも問題だけど、民族浄化を否定するのもおかしいんじゃないの?」という主張にならざるを得ず、これは非常に極端な主張です。そして事実、「自称中立」「冷笑系」といった連中は日本のインターネットの一大勢力となっています。
社会の分断も何も、社会の分断を目的とした思想が差別思想なわけで、本件については単に「差別はダメだ」「民族浄化は否定されるべき」で済む話でしかないのです。

なお、動画サイトなどに関しては私も問題であると考えます。
といっても、好みに応じた動画を出してくるシステム自体が問題であるとは考えません。私はYouTubeでは中国語の動画を用いて勉強をすることが多く、したがって同様の動画ばかりをおすすめしてくるのは非常に助かります。一方、日本語の動画は見ませんし、どうしても見る時には別のブラウザを使って汚染を避けるようにしています。
が、しかし。最近は大量通報のおかげでかなり快適になりましたが、少し前までは「DHCシアター」やら文字ヘイトやらのヘイト動画を次々におすすめしてきていたというのが偽らざる事実です。中国語の動画を積極的に見て、ヘイト動画どころか日本語の動画すら一切見ない者に対し、(おそらく日本のサーバーからの接続というだけの理由で)ヘイト動画を次々にすすめてくるのはどう考えても興味として正反対ですし、エコーチェンバーも何もあったものではありません。
ちなみにTwitterでは、やはり最近は少しマシになったようですが、以前まではトップページにレイシストのヘイトツイートがバンバン載っていました。サイトの顔にこんなものを載せれば、その影響力は極めて甚大なものとなるのは言うまでもありませんし、ここからたどっていけば自然にヘイトアカウントやヘイトツイートばかりを目にすることになります。
結局、エコーチェンバーというよりは、単に差別に引きずり込まれやすい状況が確立されてしまっていたわけです。こうして差別に引きずり込まれた人々の末路はといえば、懲戒請求への反撃を受けての大狂乱、家族が離れていくといった悲劇的なもの。特に年配者が染まった場合、正常な人格に戻れる可能性は低くなります。しかも、これらは本人にとってはまだしも自業自得ですが、差別される方にしてみればたまったものではありません。

私はこの状況をかねてから憂慮していますし、これを解消するためには実は(ここで言うところの)エコーチェンバー論を打破する必要があると考えています。すなわち、「差別も反差別も極端である」ではなく、「差別はダメ」といった普遍的な公正性を尊重し、とにもかくにも被差別者がぶん殴られている状況を止める立場にまず立たなくてはなりません。
その上で、外国に親和的な者に対してヘイト動画をすすめるようなお粗末なものとは逆、つまりヘイト動画をよく見る者に対して差別を否定したりデマを暴く動画をすすめることで、差別に染まる事態を減らすべきであると考えます。無論、「差別はダメ」なのですから、反差別動画を見る人にヘイト動画をすすめる必要はありません。
Twitterでは自殺対策などとして、自殺予告らしきツイートに対しては相談窓口の紹介などがなされているそうですが、差別とはそれどころか他人への加害行為ですから、少なくともそれ以上の対策がなされるのが当然です。
これはサービス提供者の社会的責任と言ってもいいでしょう。

西田亮介氏の「多様」に至ってはますます頭が痛いと言わざるを得ません。

>公共性を共有することも難しくなる。ある人が公共だと思うものが、他の人にはそうではなく見える。人の思考や考え方が極限まで多様になっていくと、他人に対して想像力を向けることが難しくなっていく。

「多様」だからこういうことになるのではなく、多様性を否定する連中が起こしたのがこの騒動でしょうが。どうしてこの大前提が抜け落ちているのか。
民族浄化を扇動したり、差別的取り扱いの解消を求める弁護士を外患誘致で処刑しろなどというのは、それこそ多様性の否定の究極形です。自分とは異なるある属性の集団、またはその集団への差別を否定する者について、最悪の物理的な人権侵害行為を用いて対処しろと言っているのですから。そして、この問題はそんなブログを信じる連中によって起こされているのです。
多様性を尊重するとはすなわち、多様性を毀損するような言動を否定することです。これは「多様性」や「寛容主義」を考える上での大原則。したがって、この手の連中の差別的言動を否定することが多様性に沿う行動に他なりません。

ある人が公共だと思うものが、他の人にはそうではなく見える」の言い分はある意味で象徴的です。確かに、その点で意見が分かれることはあるでしょうが、何をどう間違っても民族浄化の扇動なんぞが公共であるわけがない。朝鮮学校の差別的取り扱いに反対する弁護士について、外患誘致で死刑にしろなどというのも同様。
「差別はダメ」という極めて普遍的な公正性を尊重し、多様性を尊重すれば、このような珍妙な疑問が生まれる余地はそもそもないのです。

2018-10-27 の記事 - 2018-10-27
安田さん無事解放、おめでとうございます。

ところで、私は基本的に差別と自己責任論に反対していますが、いかなる場合でも反対しているのではありません。現実にそれを行うべきかはともかく、理論としては「差別をしたり、自己責任論を唱える者は、自らが差別されない権利、救助を受けられる権利を自由意志で放棄しているのだから、彼らだけは差別したり、助けなくともよい」と考えています。
すなわち、

・差別・自己責任論者でない人は、他の差別・自己責任論者でない人を攻撃してはならない。
・差別・自己責任論者でない人は、差別・自己責任論者を攻撃してよい。差別・自己責任論者は自由意志で自らの権利を放棄したのだから、その意思を尊重すべきである。
・差別・自己責任論者は、他の差別・自己責任論者を攻撃してよい。
・差別・自己責任論者は、差別・自己責任論者でない人を攻撃してはならない。差別・自己責任論者でない人は差別されない権利、救助される権利を持っており、それを侵害することは許されない。

こうすれば誰にとっても丸く収まるものと考えますが、いかがでしょうか。
自己責任の哲学を持つのは当然ながら自由なので、自分たちにはそれを適用すればいい。ただし、それを自己責任論を否定する他人にまで適用する権利はない。同時に、自己責任論を否定する人々もまた自己責任論者にそれを押し付ける必要はなく、彼らの自由意志による選択を尊重し、彼らに対してのみ自己責任論を適用すればよいのです。

大量懲戒請求:在日弁護士への不法行為認定 男に賠償命令

末尾に0がもう1つ付いてもいい気がしますが、とりあえずは良いことです。
このまま不当懲戒請求を受けた他の多数の弁護士からも順番に訴えられ、徹底的に痛い目に合えばよろしいのではないでしょうか。
「差別はダメ」という児童でも理解できるようなことを理解できず、ジェノサイドを扇動するブログにハマり込んで本当に攻撃を始める人間など、要するに児童以下の倫理観や理解力しか持たないわけですから、理を尽くして説得したところで無駄骨です。また、そのような手間を割いてやる義理もありません。
理解力が十分育っていない子どもなら成長を待てばよいですが、こちらは信じられないことに大人がやっていますから成長は望めませんし、おまけに本当に懲戒請求をしたり、下手をすると人を殺せるだけの力があります。悪いことをしたら痛い目に合うときっちり知らしめるのが世のため人のためです。

ただ一つ残念なのは、これが欠席裁判となってしまったこと。懲戒請求がいかに正しいもので、在日がどのように日本を支配していて、ジェノサイドで在日と反日の勢力を駆逐しなければ日本を取り戻せないといったことを法廷で熱弁していただければ、もっと素晴らしい判決が見られたかもしれません

大量懲戒請求:賛同した女性「洗脳状態だった」

「おぞましい」の一言しかありません。
差別を行っておいてこの態度。それも、真に自らの差別を認めて謝罪するならそれが一番として、差別をやめるつもりがなくとも「おイタをやらかした後のマスコミ取材だから、とりあえず差別をしたことを謝っておこう」として打算や取り繕いくらいはするものですが、それすら必要と考えていないらしい、相当重度の差別主義者です。
この手の人間は責任逃れのために判で押したように同じことを言いますが、「洗脳」などとはちゃんちゃらおかしい。もし余命から監禁でもされたり、子ども時代に嘘ばかりしつけられ、思想を刷り込まれたとでもいうなら、洗脳されたと表現しても間違いではないでしょう。しかし実際には、何から何まで支離滅裂でジェノサイドまで扇動している、最低限の知性と感覚を持ち合わせていれば一目でまずいと分かるようなものを、いい年をした大人が自らの意思で受容し、自らの意思で行動したわけです。
こんなものが洗脳だというのなら、それこそ「私はジェノサイドを扇動する支離滅裂な差別ブログを信じ、書いてあることを忠実に実行する危険人物です。便所の落書きレベルのものでも見れば洗脳され、他人に対する攻撃行動を取ります」と宣言しているようなもの。徹底的な慰謝料請求と社会的制裁によってこの手の連中が二度と日向を歩けないようにしなければ、被差別者は安心して表を歩くこともできませんから、このような言い逃れは徹底的に責任を取らせる必要性を強化するものにしかなりません。
私自身は差別に反対ですので、連中からすれば反日日本人ではあるのでしょうが、マイノリティではありません。しかし、こんな異常者が近所をうろついているかもしれないと考えると恐ろしいことこの上ありません(実際、不当懲戒請求では日本人弁護士も攻撃対象となっている)。まして被差別当事者にとって、これはどれほどの恐怖でしょうか。我が子や家族がこの異常者と同じ空気を吸っているかもしれないのはどれほどの脅威でしょうか。

手段が悪かったなどと取材の場ですら平然と言ってみせるのもまた、狂気じみています。
「いじめをしたことは間違っていない。しかし今回、強烈な反撃を受けて青ざめた。手段が悪かった」などと平然と口にするいじめ加害者を想像すれば分かりますが、問題の根本を理解する気が最初からないばかりか、これでは「今度は弱い相手を狙おう」「法的に反撃されない方法を使おう」といった結論しか導き出されません。
結局、この人物は何一つ変わっていません。せいぜい殴りつければ殴り返されて痛い目に合う場合もあると学んだ、というか「しつけられた」だけ。自分がやったことがどうして重大な結果を招いたのか、そもそも本件の根本に正当性はあったのか、などと考え、その疑問を調べてみるようなことは決してしない。これほどまでに必要に迫られてさえ絶対に学ぼうとはせず、そのくせ荒唐無稽な差別デマは貪欲に吸収して次々と他人に殴り掛かる。有害無益とはまさにこのことです。
この連中に効く唯一の薬は、殴ってきたらきっちり反撃し、責任を取らせること。それも、可能ならば立場の弱い被差別当事者ではなく、同格のマジョリティが対応するのがベストです。法的に対処できる立場の人なら容赦なく法的に対処し、路上に出てきたら罵声を浴びせかけて「路上で好き放題に差別をして楽しむはずだったのに、実際には徹底的に罵倒されるだけだった。もう嫌だ」と引っ込ませる。差別主義者は確実に反撃を受け、その責任を取らされる状況を作っていくしかありません。

2018-10-20 の記事 - 2018-10-20
パラ選手のポスターに「配慮欠く」と批判 都が撤去

これはいくらなんでも。なぜこのようなものが通ってしまったのか、理解に苦しみます。

もともとこの言葉は、文脈まで踏まえれば特段問題のあるものではないようですが、それを何の留保もなく掲示するような使い方をした以上、障碍者に対する加害の言葉と化していることは確かです。そういう意味でも掲示すべきものではなく、撤去の決定は妥当です。
しかしながら、真に恐ろしいのはこの言葉が直接障碍者を傷つけることではありません。こうした言葉が平然と掲示されることにより、この言葉の意識がマジョリティの間に浸透してしまうことです。

この言葉、一言で言い表すなら、「極めて名誉マジョリティ的」とでも形容できるでしょうか。
LGBTにせよ障碍者にせよ女性にせよ、被差別属性を持つ者が自ら差別の存在を否定してみせ、ポジティブな言葉で上書きすることは、マジョリティにとって非常に人気のあるコンテンツです。話題になる自民党女性議員は大体がこのパターンですし、先のLGBT差別でもその手の人物が出てきていました。これをすることで自らは名誉マジョリティのポストを得られ、マジョリティから高く評価されるというわけです。
しかし当然のことながら、名誉マジョリティが自分は差別されていないと主張していても、その属性を持つ他者も差別されていないことにはなりません。被差別属性であっても、実際に差別されるか否かは生まれや社会的立場、運などによって大きく変動します。そして、差別というものが他人を劣ったかのようにみなす行為である以上、劣っていると特段みなされていない幸運な例よりも、より劣ったかのようにみなされている例こそを見て、それを是正しなければなりません。

この言葉の元発言に関して言えば、おそらく名誉マジョリティ的なものではありません。パラリンピックでは障碍を言い訳にできないという意味でなされた発言であると指摘されており、そうであればアスリートの言葉としてごく自然なものです。
しかし、このような安易な掲示の仕方では、まず間違いなく名誉マジョリティ的な発言としての機能を持つことになります。これが意識的に行われたものか、無意識になされたものかは分かりませんが、結果的にはマジョリティ側によって「作られた」名誉マジョリティ発言となってしまったといえるでしょう。
この言葉をこのような方法で用いようと考えた者にしても、あるいは先日問題になった退去バラエティ番組にしても、さらにはヘイト本出版社にしてもそうですが、現状のこの国のマイノリティにとって、レイシズムに染まったマジョリティの存在は生存権にかかわるほどの脅威であるという観点が完全に抜け落ちていると言わざるを得ません。

相模原事件はおそらく戦後日本史上最悪のヘイトクライムであり、障碍者であることを理由とした殺戮行為です。本来、このような異常行為は到底許されるものではありませんが、肯定する者が少なからず現れているのが今の日本です。おまけに、肯定する連中は誰か具体的な特定個人について「そいつが憎い」とみなしているのではなく、障碍者という属性に対する殺戮を肯定しているのです。相手に恨みがあるわけでもなんでもなく、顔を見たこともないような相手の殺戮を肯定しているわけです。極めて恐ろしい状況であると言わなければなりません。
あるいはLGBT差別。与党議員の杉田氏が大手出版社と一緒になってLGBTをいきなり攻撃しにかかった件は記憶に新しいところですが、小川氏に至ってはLGBTについて詳細を知らなければ、知るつもりもないことを文章中で公言しています。最初から知るつもりもないような属性について、大手出版社までが手を貸してわざわざぶん殴りに行くのですから、まともに考えれば正気の沙汰ではありません。
マイノリティは何もしていなくても、特に恨みを買うようなことがなくても、与党議員や大手出版社などを含む身勝手な差別主義者からいきなりぶん殴られたり、最悪殺されてもおかしくない状況に置かれているのです。
この両者に共通するキーワードは「生産性」ですが、この上さらに「障がいは言い訳にできない」などという価値観が社会に蔓延したらどうなるか。「生産性」による差別思想をより強化する結果となるであろうことは目に見えています。

しかも、マイノリティは理不尽にぶん殴られても反撃することは困難です。少しでも抵抗の動きを見せた途端、「黙って殴られるのに耐える涙ぐましいマイノリティ像」を求め、そうである限りはお目こぼしをしてやろうと考えているマジョリティ様が、大挙して攻撃してくるためです。こういった連中にとっては、名誉マジョリティこそがまともに扱うに値する唯一のマイノリティであって、それがマイノリティが自らの身を守り、成功するための手段となっています。
一方、複合差別に抵抗した辛氏、性犯罪を告発した伊藤氏などは、苛烈な攻撃を受けて海外に「亡命」することになりました。被差別側が名誉マジョリティや泣き寝入りを選ばないのは、これほどに困難なのです。

それにしても、これがよりによってパラリンピックを盛り上げるイベントのためのポスターとして作られるとは、なんとも残念な話です。パラリンピックの意義を理解できているのでしょうか。

2018-10-14 の記事 - 2018-10-14
柴山文科相、教育勅語「アレンジし道徳に使える分野も」

ヘイトデモ参加者名簿と見間違うような内閣だけあって、早速これです。

どれほどひどい料理であっても、材料が腐っていたり一般に食されない代物であったりしない限り、普遍的な材料が用いられています。それこそ「教育勅語」のような異臭を放つ大失敗ゲテモノ料理であっても、素材自体は例えば塩や野菜、魚といった普遍的なものが用いられています。
しかし当然のことながら、異臭を放つ異常な料理を子どもたちに食べさせようとしたり、ましてや「これを食べられないということは、塩や野菜、魚を否定するのか?」と意味不明なことを言い立てるのは完全に間違っています。
素材が普遍的であるならば、異常な料理から多少はマシに見える部分を取り出して食べさせようとする必要はありません。同じ素材を使ってまともに食べられる料理を作れば済むことです。
それを、なぜこの手の人々は何が何でも教育勅語にこだわるのか。それが教育勅語でなくてはならないからです。彼らは子どもたちに野菜や魚を食べさせたいのではありません。何が何でも、見た目や異臭をごまかしてでも、ゲテモノ料理を食べさせたいのです。
当然、こんなものには断じて賛同などしようがなく、全否定されなければなりません。

ところでこの教育勅語、普遍的でまともなことも書いてあると主張する人はいるものの、私としては「普遍的でない」人に対して全く普遍性を持たない点が気になっています。もっと踏み込んで言えば、こんなものは教育で押し付けるような内容ではなく、むしろ普遍的から外れた人々の権利を守ろうとする内容こそ今の道徳教育に必要ではないかと考えます。

以下、「教育勅語は普遍性を持つ」と柴山文科相が言ったので、現代語訳を読んでみましたの戦前の文部省図書局による口語訳より。

・父母に孝をつくし
「父母」がいない者がいるのもさることながら、親から嫌がらせ・暴力行為・性的行為・ネグレクトなどの虐待を受けた者にとって、「孝をつくせ」は呪いの言葉です。それを言う方には悪意がなく、それ自体は世間的には正しいとみなされており、言われた方は真正面から反論することが難しく、それでいて魂を深々とえぐる、まさに言葉の凶器に他なりません。
こんなものは国や学校が押し付けるようなことではありません。それよりもむしろ、虐待の概念や知識を道徳などの授業でしっかり教育し、相談窓口などの情報を十分に提供し、虐待を受けた本人、または虐待らしき事例を見かけた周囲が動ける環境を整えて、父母や保護者による虐待から身を守れるようにする方が重要でしょう。

・兄弟姉妹仲よくし
これも同様。事情は様々ですから、仲よくしろと押し付けられるようなものではありません。肉親だろうが誰だろうが、他人を踏みにじったりするような輩を嫌うのは当然。

・夫婦互に睦び合い
これもまた呪いの言葉。睦び合いたくてそうするのは個人の自由ですが、配偶者が家庭内暴力(精神的・物理的を問わず)を行うような場合、そのような者と睦び合う必要など何一つないのです。
実際に学校で教育すべきは、家庭内暴力の知識でしょう。精神的な支配なども家庭内暴力となり得ること、ハネムーン期というものがあってなかなか逃げられない心理状態になること、しかし即刻逃げて身を守るべきであることなどを教育し、身を守る知識を提供すべきなのです。
ちなみに、破滅的な夫婦関係なのに、子に対しては親が無理に配偶者を立てようとするケースも珍しくないようで、当然子どもはそれを完全に見抜いていて、逆に白けていたという話をしばしば耳にします。とはいえ、こんなものが正常な状況と勘違いされれば世代連鎖の可能性があるわけで、白けた方がまだマシなのですが。「睦び合」うべしという呪いの成れの果てです。

このように、「普遍的」な呪いの言葉で人をがんじがらめにするのではなく、「普遍的でない」人が命や権利を守れるような教育こそ、本来目指すべきものでしょう。これは教育の理念、すなわちあらゆる人に一定の知識を提供するという点からしても妥当なものです。
他にも、教育勅語のほとんどは「部分的には正しいと強弁できなくはないものの、国がそれを言い出してはどうしようもない」「反面教師としては役に立つ」「むしろ国がそれを守れ」と言わざるを得ない事柄で構成されています。

・朋友互に信義を以て交り
友人関係も人によって様々なのでは。どうして友人とのあり方までああしろこうしろと言われる必要があるのか

・ヘりくだって気随気侭の振舞をせず
麻生氏にでも言っては?
それと、インターネットやら書店やらテレビ欄やらには「日本スゴイ」「中韓はダメ」が並んでいるようなのですが、これはどうしましょうか。
これらを事例として挙げた上で「こういう最低な行為は人間として恥です」と教育するなら大いに結構。また、こうした行為は「愛国心」を御旗として行われますから、当然「愛国心」とやらを疑う教育もセットにする必要があります。

・人々に対して慈愛を及ぼすようにし
福祉・被災地切り捨て真っ最中の政府に言っては?
自己責任バッシングや「生産性」論を一切否定する教育を行うなら、あってもいいでしょう(ただし、これは本来「慈愛」とは別の次元で否定されるべきものなので、あくまでとっかかりとして)。
逆に、人々の慈愛や助け合いによって国の責任をあいまいにするようなことがあってはなりません。例えば被災地ボランティアは慈愛に含まれるでしょうが、災害対策や復興は本来国の責任であって、ボランティアはその隙間を埋めるものでしかありません。

・学問を修め業務を習って知識才能を養い
これは国に言われるようなことではありません
学問を収め、知識才能を養うのは、言うまでもなく非常に素晴らしいことです。しかし、それはあくまで本人が自分のためにやるものであって、国のためではありません。せいぜい「国に還元されたらラッキー」程度。国が教育環境を整備すべきなのは、学問・教育は人の権利であるからです。
国がウダウダと言い出し、学問や知識は国のためということを隠さなくなると、人間としての見識を広げ、時として発見ももたらす「無駄な知識」は第一に切り捨てられ、果ては「法学部では憲法や刑法ではなく、大型二種免許を取得しましょう」「工学部では機械力学ではなく、トヨタの機械の使い方を覚えましょう」などと頭のおかしい案を大真面目に言い出すことになるのです。

・善良有為の人物となり
同上。善良とか有為とか、なぜいちいち国に決められねばならないのか。それに、国からすれば邪悪の極みでも、市民にとって善良有為な人もいるでしょう。
例えば多くの沖縄県民に評価された翁長氏は、安倍政権にとっていかなる人物でしょうか。与党議員・杉田氏にとって「生産性のない」LGBT、そしてLGBT差別に抵抗する人々はどう見えるでしょうか。

・進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし
教えるべきは「公共の利益」よりも「公共の福祉」です。

・常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し
法令にせよ典範にせよ規則にせよ、それらは公正性を保つ上で必要だから守られるべきなのであって、そうでない場合にもとにかく守れと言い立てるのは正しくありません。
例えば、ローザ・パークス、杉原千畝、ナチスへのレジスタンスなどは、いずれも規則を尊重しなかったから評価を受けている人々です。
政府がお友達に多額の国有財産を提供する汚職をしたならば、それを知った人は規則としてそれを公開してはいけないことになっていても、公正性のために世に出すのが正しい行動です。その記録の改ざんを命じられたならば、本来従わなくてはならないとしても、それを拒否するのが正しい行動です。
児童・生徒にとってもっと身近な例で言うなら、人権を侵害するブラック校則は守らないことこそが公正性に資する行為です。
不公正な規則であっても、とりあえず遵守しておいた方が楽ではあります。しかし、その規則によって蹂躙されるのに耐えるだけの余力が残っていない人もいます。そうした人を理不尽な規則から守るためにも、公正性に反する規則に対しては、余力がある人や直撃は受けない人が率先して抵抗しなければなりません。
なお、「憲法」の「尊重遵守」に限ってはしっかり教育してよいと考えています。憲法を守るのは権力であって、それを守らないような権力は即刻退場させなければならない、ときっちり教えるべきでしょう。

・万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧けて皇室国家の為につくせ
論外
特攻犠牲者や戦没者に関して、よく「亡くなられた方々のおかげで今の日本の発展がある」などと言われたりしますが、つまり第二次世界大戦で仮に日本人全員が一身をささげて一人残らず玉砕していたら、日本には相当に分厚い礎が築かれていたことでしょう。そうなれば、きっと日本は米国や中国など到底相手にならないほどの大発展を遂げ、世界一の国となったに違いありません。全員死んでいるのに誰が発展させるのかは知りませんが
なお私は、教育勅語のこのフレーズを道徳教育で取り上げることには反対ではありません。「こんなふざけた幼稚なスローガンのもと、若者は命を投げさせられた」と教育する上で、これほど有効なものはないからです。ついでに、特攻などを命じて若者を散々死なせた連中がしばしば生き延びて天寿を全うしたり、国のために身をささげた人ではなく逃げ延びた人こそが戦後の発展に関与できた事実もしっかり伝えるべきです。

天皇がどうたら、先祖がどうたらといった妄想文の部分はバカバカしいだけなので、武士の情けで取り上げないでおきます。なんであんな恥ずかしい文章と「ヘりくだって気随気侭の振舞をせず」が同居できるのか。さすがはヘイト政権お気に入りの文だけはあって、そこら辺のヘイト本に書かれていそうな内容です。
このように、教育勅語の逆を行き、人権の大切さや身を守る方法を教えるきっかけとして用いるのであれば、確かに教育勅語は案外良い教材になり得ます。当然、柴山氏やヘイト内閣の面々が見れば即座に脳の血管が切れるような教材ができあがるでしょう。

2018-10-06 の記事 - 2018-10-06
勝利は容易ではないとされていた沖縄知事選でしたが、ふたを開けてみれば玉城デニー氏の圧勝に終わりました。
この選挙に対し、与党は「総力戦」を展開していました。今の自民党や政権における「総力戦」とはすなわち、自民・公明・維新・創価・幸福カルトが勢揃いし、国会議員から各勢力の「飼い犬」までがデマとヘイトの限りを尽くし、自らの力の優位性を用いて締め上げ、選挙の自由や秘密選挙を損なうような手段を用い、ありとあらゆる外道で卑怯で非民主的な手を駆使して勝ちに行くことです。
玉城氏が勝ったのはもちろん、このような卑劣な手段を使った側がきっちり敗北したのは非常に素晴らしいことで、喜ばしいというよりはほっとしています。

ただし、問題はこれからです。玉城氏が圧倒的な勝利を収めたまではいいものの、このままでは氏が十分な成果を上げることは難しいでしょう。そして、氏がなかなか成果を上げられないことをレイシスト連中にあげつらわれ、失敗知事のレッテルを貼られる危険すらあり得ます。
無論、玉城氏の能力が足りないわけではありません。本土及び日本政府と沖縄では力の差がありすぎるのです。沖縄単独でこの状況を支え続けるなど、神様が知事になってすら不可能です。これは翁長氏も苦しみ続けた点ですが、本土が圧倒的な力で殴りつけてくる限り、沖縄は責任者の実力の程度など無関係に、日に日に追い詰められていきます。これに根を上げ、本心を殺して「降伏」を選びたがる沖縄人が出てきても、責めることはできません。
すなわち、本土が沖縄いじめをやめ、沖縄を踏みにじる政府を拒否し、沖縄の側に立たなければなりません。
沖縄はすでに、徹底的に卑劣な手段を用いて勝ちを得ようとした与党系候補を退けてまで、その民意を示しました。沖縄が果たすべき責任はここまでです。ここから先は100%、本土の責任なのです。

沖縄県知事選 玉城デニー氏が初当選 「菅官房長官と小泉進次郎氏の演説で失敗」(自民党幹部)

別にこの件が致命傷というわけではないでしょうが、いつもの「総力戦」を用いても勝てなかったのは確かです。
ではなぜ、沖縄には「総力戦」、すなわちデマとヘイトにまみれた卑劣な選挙戦略が通用しなかったのでしょうか。

卑劣なデマとヘイトが佐喜眞陣営にとって逆効果になった、との主張も見られますが、私はそのようには考えていません。おそらく、「総力戦」は沖縄でもそれなりの効果を上げていました。当然、卑怯な手段に対する反発から票が逃げた側面は確かにあるはずで、そのどちらが多いかを決定できるだけの情報を私は持ちませんが、差し引いても一定の効果はあったのではないかと考えています。
でなければ、直接の制御が難しい野良レイシスト連中はともかく、陣営側の国会議員、例えば遠山氏までがデマ流しに加わる理由はありませんし、おまけに氏は知事選後に公明党の幹事長代理のポストを得ており、デマ流しのご褒美、というのは言い過ぎにしても、少なくとも問題視はされていないことが分かります。
ただ、本土ならばデマとヘイトでほとんど勝ちを収めることができるところを、沖縄では勝利を得られるほどまでに絶対的な作用を持たなかった、というわけです。
そして、与党お得意のデマ・ヘイト戦略では勝ちきれなかった以上、残りは普通の選挙戦、すなわち政策や人柄、誠実さなどでの勝負となります。こうなると、沖縄の一大関心事である基地問題は隠し続けて「携帯電話の料金を下げる」などと知事の権限では不可能な政策を言い立て、陣営の非公式応援者の蛮行はもとより国会議員までがデマを垂れ流し、しかも佐喜眞氏自身が日本会議のメンバーであった上にそれを隠そうとするなど、非常に問題が多かった佐喜眞陣営が、ルーツからしても多様性を象徴するような存在であり、ヘイト陣営とは対極にある玉城氏に太刀打ちすることは難しくなります。

本土ではあれほど強烈な効果を見せるデマやヘイトが、沖縄ではあまり効かなかったことには様々な要因があるのでしょうが、私はこれを「踏みにじられてきた沖縄だから」ではないかと考えています。
本土はもはや、デマとヘイトにまみれています。少し強烈な言い方をするならば、自らの人権の一部、健康で文化的で文明的な生活の一部を放棄するのと引き換えに、「デマ」という幸せになる粉、「ヘイト」という弱い立場の人々の頭を土足で踏みにじる娯楽を与えられ、その快楽に浸っているのが今の日本です。
インターネットにヘイトが現れない日はなく、本屋に行けばヘイト本が積まれ、テレビを見ればヘイト番組や日本スゴイ番組。若い世代はインターネット、年配世代はヘイト本とテレビ。症状をこじらせた若者はPCや携帯端末でヘイトを書き散らし、年配者は懲戒請求を書き散らす。そこまでこじらせていない者でも、極めて自然に差別や偏見を口にする。老いも若きもこの快楽に漬かり切っています。
国会議員の杉田氏はむごたらしい文章を新潮45に記載し、東京の小池氏は朝鮮人虐殺への追悼文送付をせず、大阪は歴史修正主義によってサンフランシスコ市との姉妹都市を解除する。極めつけはヘイト人員ばかり寄せ集めた内閣改造。こうした国・地方の両方における政治家の動きは、直近のものだけでもかなりの数に上ります。
こうしたヘイトのターゲットとなる相手は、韓国・朝鮮人、中国人、その他外国人・難民、障碍者、性的マイノリティ、女性、生活困窮者、少数民族者など。当然、普段は「沖縄」もそのターゲットの中に入っています
日々ひどい言葉を投げかけ、基地などの負担は押し付け、今まで散々踏みにじってきた沖縄に対し、選挙となるなり「お前らにもデマとヘイトの快楽を与えてやる。だから基地問題などへの抵抗をやめ、沖縄としての尊厳を放棄しろ」と言わんばかりのデマ・ヘイト。
本土であれば勝負を決めるのに十分なだけの住民がヘイトデマに影響され、その幸せの粉によってありもしないものが見えるようになり、居もしない「敵」と戦って快楽に酔いしれ、与党側候補が勝ちを収めるところですが、沖縄は決してその尊厳を売り渡しませんでした。佐喜眞氏に投票しなかった人のみならず、色々と大変な事情があって佐喜眞氏に入れた沖縄人の中にも、その陣営のやり方に疑問を抱いていた人は多いのではないでしょうか。
そして、沖縄がそれを拒否する民意を示した後、都合の良い時だけは「沖縄は日本だ」などと言ったりするヘイト連中がどのような態度を取ったかは、これを見ての通りです。

玉城デニー氏当選後、「総攻撃」「再占領」など沖縄をめぐる暴力的なツイート相次ぐ

こんなもの冗談では済まされませんし、実際冗談ではないのでしょう。
結局、どうあっても沖縄はヘイトの対象でしかないのです。沖縄の人々がこのような連中の願い通りにならない決定を下したのはやはり尊いことだと、つくづく考えざるを得ません。

ところで、なぜ本土は頑なに沖縄の言い分を無視し、沖縄をいじめる政府を選び、沖縄に苦痛を押し付け続けるのか。
よくある答えとして「本土が基地負担などを受け入れなくて済み、都合が良いから」というものがありますが、私はこれに疑問を持っています。
仮に本土で基地の一部を持つことになったとしても、多くの人にとってそれが自分の家の隣に来る可能性は限りなく低いのです。近所が高確率でその候補となり得る人ならともかく、何が何でも過大な負担を沖縄に押しつけ続ける理由として、それほど強力な動機には見えません。ほんのわずかでもリスクがあるなら嫌だというなら、福祉削減政策にでも反対する方が合理的ですし、誰か本土の人間が苦しむのは嫌だというなら、沖縄人の苦しみも無視できないはずです。
また、地理的な面を考えたとしても、実際には基地は必ずしも全部沖縄に置く必要はありません。翁長氏も玉城氏も知事として基地の全廃は求めておらず、こんな理不尽な負担はもう無理だと言っているに過ぎません。沖縄の負担問題は地理的問題でも国際問題でもなく、内政問題とみなすべきものです。
結局、建前としてこれらの理由を口にすることはあったとしても、そればかりが理由であるとは到底考えられないのです。

それでは、他に何が理由なのか。沖縄が生意気にも反論し、抵抗し、負担を嫌がるのが気に障るから、というのが理由の一つであると、私は考えています。政府が翁長氏時代の沖縄に対してやってきたいじめはまさにそれですし、そのやり方に多数の本土の人々が激怒し、政府が窮地に立たされるようなこともありませんでした。
実際、これは沖縄に限った話ではありません。同性愛者を「気持ち悪い」としながら、ならば気持ち悪い連中など放っておけばよいものを、差別解消などを訴えるLGBTにいちいち攻撃をかける者。自力でタラップを上がり、バリアフリーを訴える障碍者を攻撃する連中。テレビで貧困について訴えた女子高生を攻撃する、国会議員までもを含む連中。性被害を訴えた女性を攻撃し、とうとう「亡命」にまで追いやる連中。いきいきと活躍する韓国ルーツの人に、非道な暴言を投げかける連中。
結局、見下し、差別し、踏みにじっている相手が、声を上げたり、抵抗したり、活躍することが気にくわないのです。
沖縄知事選で敗れた後、安倍氏は内閣改造を行い、内閣のメンバーというよりヘイトデモ参加者のリストにしか見えないほどにすさまじい人事となりました。沖縄での敗北を受けて、ますます極まったヘイトをぶつけることが、本土の世論の評価を得る上で得策であると判断しているわけです。

今回の沖縄の体験を弾みとして、立憲野党は次の選挙に備えることになるでしょう。ただ、私はそれが沖縄のようにいくとは全く考えていません。
人に踏みにじられる痛みも知らず、人を踏みにじる快楽に漬かっている本土に対しては、今後とも「総力戦」は効果的すぎるほどに効果を発揮するはずです。

ネット右翼に足を引っ張られた佐喜眞候補【沖縄県知事選挙 現地レポ〜敗北の分析】

この記事。佐喜眞陣営は「勘弁して欲しかった」としていますが、到底信じられません。
というのは、もし佐喜眞陣営がこれを本気で迷惑とみなしていたならば、そのようなヘイト連中の存在に一言たりとも言及することなく、しかも印象の良いポジティブな訴えによりヘイト連中を追い散らす、ポジティブカウンターが可能であったためです。

佐喜眞氏の支持者により、玉城氏は中国の手先だの、中国が侵略してくるだのと散々デマが流されましたが、実は佐喜眞氏こそが沖縄県日中友好協会の顧問であるという情報が掘り出されています。
無論、私はこれについて佐喜眞氏を批判するつもりはありません。日中友好、実に素晴らしいものではありませんか。私は佐喜眞陣営のやることなすこと、そのほとんどに賛同できませんでしたが、日中友好を目指すのであればその点だけには大いに賛同します。
沖縄から日中友好を訴え、友好の懸け橋となる。これは携帯電話料金値下げなるインチキ政策と違い、知事の権限で十分に実現可能です。経済面でもメリットがあり、経済振興を訴える佐喜眞氏の方向性にも合致しています。友好的で穏健な姿勢をアピールでき、無党派層の支持も得られます。加えて、中国を悪魔化してデマとヘイトの限りを尽くしている非公式応援団の連中も、蜘蛛の子を散らすように退散することでしょう。
必要なのはただ一言、「私は日中友好協会の顧問です。知事になったら日中友好をどんどん推進していきます」と宣言するだけ。ただそれだけで、これほどのメリットが生まれるのです。
ところがどうか。大迷惑な非公式応援団が徹底的にヘイトとデマを垂れ流す中で、佐喜眞陣営からそのようなことは一切なされなかったのです。非公式応援団による中国を悪魔化したヘイトに頭を痛めていて、直接の言及は避けつつそれを止めたいと考えているなら、自分が日中友好アピールをするのが一番であることなど、誰にでも分かりそうなものです。
なぜしないのか。こうした非公式応援団こそが、佐喜眞陣営の真の応援団であることを知っていたからです。中国ヘイトに染まった連中こそが、自分の票田であると理解していたからです。

「日本ではない国に行けば」 翁長知事の息子が投げかけられた言葉

興味深い記事ではあります。
が、しかし。

>すごくこんがらがっていた。保守的な思想と、しかしながら基地に反対したい思想と。それの整合性が取れずに、どんどん「ネトウヨ」になっていった。

>それも一つの経験だったし、だからこそ今の自分があると思いますので、諌める気はありません。


他人の魂を殺傷し、その尊厳を踏みにじっておきながら、この認識の浅さは一体何なのですか
レイシストになるというのは、ここまで軽々しく語れることではありません。それは人々の魂を殺す行為ですし、現実に命を失う人もいます。レイシストから脱却できたとして、贖罪に必要なのは数年か、数十年か、あるいは一生涯か。それほどに重いことなのです。

氏のような人に聞いてみたいことがあります。

もしあなたが、快楽のために人を殺したとします。その後、あなたが「人殺し」ではなくなるためには何をすればよいですか?

これは答えのない問題です。服役して出所すれば、刑法上の責任は終えたことにはなっても、おそらくそれで「人殺し」でなくなるわけではないでしょう。
贖罪を済ませた時でしょうか。では、何をすれば贖罪といえるのか。遺族に許された時でしょうか。では、遺族がどこにいるか分からない場合は?それとも、快楽目的で人を殺してしまった以上、死ぬまで「人殺し」であり続けるのでしょうか。
その上で、次にこう問います。

あなたは快楽のために人の魂を殺しました。その後、あなたが「魂の人殺し」ではなくなるためには何をすればよいですか?

私は、この翁長氏の息子という方がレイシストでなくなったとは考えません。本当にレイシストではなくなった人間の態度ではないからです。
たとえ塗炭の苦しみを味わわされ、針の筵に巻かれ、踏まれ蹴られ、そのままドブに突き落とされても、全く文句は言えないどころか、被害者の苦しみに比べればあまりにも軽い。人の魂を殺し、その尊厳を踏みにじった代償はあまりにも重い。差別とは、レイシストになるとは、そういう行為です。

そして案の定、ヘイト市議・小坪氏と面会していたことが判明。自分の罪が認識できていないから、こういうことになります。しかも、知らなかったなら「よくないことでした。今後は気を付けます」で済むところを、「会いたいと仰る方とは会う」「排除の論理が嫌い」と自称中立ヘイト勢のような定番の言い訳。無論、安田浩一氏のように反差別を明確にし、差別について十分な知識を持った上でレイシストを取材することはあってもよいのですが、この言い訳の様子ではそれとは程遠いと考えざるを得ません。
どうぞ、きっちり反省してから出直しておいでください。自分の罪を正しく認識し、その重さにのたうち回って苦しみ、果てのない贖罪を決意し、それからおいでください。現状のこの方の言い分からは、懲戒請求で反撃を受けそうになり、慌てて謝罪という名の言い逃れや責任転嫁をした人々と同じ匂いしかしません。

2018-09-28 の記事 - 2018-09-28
「新潮45」休刊のお知らせ

なぜ「差別をしたことをお詫びします」と言えないのですか?このような事態を招いたことについてお詫び」するそうですが、このような事態さえ招かなければ差別をしてもいいと考えているのでしょうか。謝罪する相手も、まず第一には新潮社が差別でぶん殴った被差別当事者であるべきです。

>しかしここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていたことは否めません。

言い訳として無理があります。
確かに、人間誰しも間違いはあるもの。杉田文章を記載してしまったことについては、それこそ新潮45の10月号の誌面を使用し、徹底的な社内調査の結果と処分の報告、杉田文章への反論やファクトチェックなどを行い、二度と差別をしないと会社として宣言し、反差別特集を組むくらいのことはしていれば、少なくともここまでの事態は避けられたでしょうし、逆に信頼を得ていたかもしれません。
実際、メディア・文筆家・被差別当事者・一般の人々などから、あの文章がどれほど劣悪で不当なものであるか、あらゆる切り口から理を尽くした反論がなされており、新潮にはこれが過ちであることを認識する機会がいくらでも与えられていました。
ところが、新潮45は再び被差別当事者をぶん殴ることを選択します。一度目の時点で言うならまだしも、それが猛批判されている状況でわざわざ二度目をやっておいて「企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」とは何事ですか。企画を厳密に吟味し、十分な原稿チェックの末に行われたのがあの記事であると考えるのが妥当です。

結局は休刊となりましたが、「ああ、そうですか」の一言。最も重要なことがことごとくなされていないためです。
「差別をしたことに対する」謝罪、徹底した原因究明とその公表、厳格な処分と再発防止策の策定、二度と差別はしないとの誓約がなされるならば、新潮45を休刊するか否かはさしたる問題とはなりません。たとえ新潮45が存続されたとしても、そこに差別が掲載されることはなくなるためです。
しかし、新潮社はそれらを全く行いませんでした。原因はほとんど解明されず、差別を生む土壌は放置され、意味のある処分は行われず、お詫び文に至っては「差別」の「さ」の字も出てこない始末。全く何も変わっていない以上、新潮45が休刊となったところで、新潮社は別の書籍をいくらでも差別に用いることができます
また、新潮45自体も部数が低迷していたわけですから、もともとがお荷物であったところに、今回の件で著しくイメージが悪化して厄介者でしかなくなった新潮45を切るというのは大して重い判断ではありません。会社の中でも大きな利益を生み出している重要商品を切るならまだしも、これでは区切りとしての意味すら持ちません。
したがって、この休刊がそれほど重要であるとみなすことはできません。

無論、休刊されたことが良いか悪いかと問われれば、私は良いと答えます。
新潮社は言論を扱う老舗の大手でありながら、その言論を人々の魂を殺戮するための兵器に転用し、それを実際に用いて人々を蹂躙し、それが問題になっている状況下で平然と二度目の殺傷も行い、しかも差別を謝罪することは一切ないなど、極めて攻撃的で危険かつ全く歯止めの効かない存在であることが明らかになりました。
そのような者の手から、「新潮45」という二度にわたって人々の魂を殺傷した実績のある凶器を弾き落としたことは、たとえ新潮社が凶器に転用可能な道具を他にいくらでも所有しているとしても、十分に意味があることです。

ところで、新潮45はどうすべきであったか、そもそもの発端である杉田氏はどうすべきであったかについては、人々の間でもいくらか見解が分かれているようです。休刊の決定に関しても、評価する声もあれば、残念とする声も聞かれます。
なお、休刊は残念とする声については、私も「新潮が自ら、調査結果を公表し反省を述べ、差別をしない誓いをする場を放棄した」という意味に限って同意見です。もっとも、今の新潮がそれをする可能性は万に一つもないため、結果的には休刊の方がマシという結論に至らざるを得ません。
今回ここで私が反論しておきたいのは、「せっかくの誌面の場なのだから、擁護・否定両方の意見を取り上げて議論の場を提供すればよかった」「新潮45は別の人間に反論させるのではなく、杉田氏に反論をさせるべきだった」という2つの意見についてです。

誌面で「擁護・否定両方の意見を取り上げる」ことは明確に間違っています。
議論のある言論について、これを行うことは妥当な場合も多くあります。しかし、差別は言論ではなく単なる暴力です。
世の中の過半数の人は異性愛者に生まれつきますが、それはたまたまでしかありません。マジョリティに生まれついた人でも、同性愛者に生まれていた可能性、トランスであった可能性、あるいは障碍を持って生まれていた可能性、在日韓国・朝鮮人など今の日本で差別の対象となっている属性に生まれていた可能性があります。
そして、そうした属性に生まれついた人々に対して、その属性に生まれついたことを理由として行われる、魂を殺傷し、その生存権や平穏な生活を脅かし、人間としての尊厳を踏みにじる暴力行為について、「それは行われるのが妥当か、行われるべきではないのか、両方の立場を取り上げて議論しましょう」などというのは明確な差別への加担行為であり、明らかに間違っています。
書籍がこんなものを自由な言論として載せるのであれば、そんなものは匿名掲示板の片隅の差別落書きを記載するのと何一つ変わるところはありません。何のための書籍で、何のためのブランドで、何のための校閲でしょうか。そして、出版社のブランドを掲げて書店にずらりと並べられた書籍は、わざわざ見に行かないと見られない匿名掲示板の差別落書きの比ではないほど多くの人々の目に触れ、その尊厳を踏みにじり、強烈なダメージを与え、また多くの人々の差別意識を扇動します。
これは書店にしてもそうですが、「どんな言論も分け隔てなく扱う」といったような言葉は耳触りこそ良いものの、これは「理不尽な暴力も非暴力と同列に扱う」「出版と落書きの差、つまり出版社や書店が持つべき役割を放棄する」と言っているのと同じです。正当な言論と、言論の名を騙る暴力行為は、区別されなくてはなりません。
差別に賛否の議論などあり得ません。これは大前提です。杉田文章はもうここでいちいち説明する必要がないほど多くの人々によって語りつくされていますが、偏見と事実誤認と全体主義的思想と差別意識に基づく明確な差別でしかありません。その賛否を誌面で議論することなど、当然あり得ません。

「別の人間ではなく杉田氏に反論をさせる」のも誤りです。これ以上杉田氏の文章を記載してよいのは、氏が以前の自らの差別について謝罪・撤回の意思を表明する文章を書いた場合のみで、反論を記載するなどもってのほか。それはすなわち、再び差別を垂れ流す結果にしかなりません。
「批判を浴びた杉田氏に反論の機会がないのはおかしい」との声もあるかもしれませんが、そもそも最初の文章が載ったことがおかしいのです。本来なら到底記載できないような劣悪なヘイト文章でも、最初に載せてさえしまえば、次以降も反論の体さえ取れば載せていい、というようなことは到底認められません。また、杉田氏は公人ですから新潮45でしか物が言えないわけではなく、それどころか例の差別についての問いから逃げ回っておきながら、好き勝手に講演会などをやっています。もともと力も発言力もある公人と大手出版社が被差別当事者をいきなりぶん殴り、彼らを萎縮させることの方が、発言の機会を奪う意味では何倍も深刻です。
そして、もし氏に反論など書かせようものならどうなっていたか。それは、杉田氏の反論こそ記載されたわけではないものの、新潮45が批判への反撃として行った反論特集の惨状が物語っています。
どの反論もそれなりに問題のあるものであったことが指摘されていますが、中でも小川氏の主張たるや、今回見識のなさを著しく露呈することになった新潮社をもってしてもかばいようがないほど劣悪なものでした。偏見だとか、稚拙だとか、低レベルだとかいう領域はとうに超え、もう狂気の沙汰と表現した方が適切ではないかと考えるほどです。
杉田氏の文章は、その表現の表層だけを見れば、いくらなんでも小川氏ほど狂気に満ちたものとはなっていません。しかしながら、LGBTに対する著しい偏見・差別・事実誤認に加え、ナチスや相模原事件と極めて親和性の高い「生産性」論を展開して全方位的な差別の火種を作るなど、杉田氏の主張がその中身において小川氏よりひどくないなどとは到底言えないと私は考えています。なにしろ、そもそもこのような事態に至るほどまでの大騒乱をまず巻き起こしたのが、他ならぬ杉田氏なのですから。

実は差別主義者たちも、その多くは理由もなく差別をしているのではありません。彼らなりの理由があって差別をしているのです。ただしその理由たるや、小川氏が本音を包み隠さず垂れ流してくれたおかげで分かるように、極めて理不尽で見るに堪えないようなものばかり。これは小川氏が特別ひどいというより、小川氏があまりに本音を直接的に伝えるような言葉選びをしただけで、差別主義者が差別をする理由などほとんどこれと五十歩百歩です。正当な差別というものが原理上この世に存在し得ない以上、当然ではありますが。
杉田氏に反論をさせ、理由を語らせようものならどうなっていたか。小川氏のような言葉選びをしないだけで、内容としてはどちらがひどいとも言えないような地獄絵図が繰り広げられたであろうことは想像に難くありません
そしてそれは、今回の新潮45の反論特集がそうであったのと同様に、被差別当事者の魂を殺し、人間としての尊厳を徹底的に踏みにじることを意味します。そのようなことは決して許されないのです。

2018-09-22 の記事 - 2018-09-22
杉田水脈氏への批判は「見当外れ」 新潮45が掲載へ

話題の"そんなにおかしいか『杉田水脈』論文" 寄稿者のLGBT当事者が論文を書いた理由

「ごめんなさい」も言えないのか、この連中は

あきれ果てました。LGBTに対する無知と偏見に基づくばかりか、「生産性」などとして全方位に差別の種をまき散らした杉田氏が批判を浴びるのは当然ですし、それすらなされなくなったら社会は終わりです。思想的には在特会とほぼ変わらない自民党ですら、当然ながら同じ思想の杉田氏を処分までするわけにはいかないにしても、注意はしてお茶を濁しました。
それを、この雑誌は未だにヘイトの上塗りですか。この連中はヘイトを塗り重ねているつもりでも、実際には自らに対して恥を塗り重ねていると知った方がよろしいでしょう。

>主要メディアは戦時下さながらに杉田攻撃一色に染まり、そこには冷静さのかけらもなかった。あの記事をどう読むべきなのか。LGBT当事者の声も含め、真っ当な議論のきっかけとなる論考をお届けする。

レイシストの常套手段とはいえ、何を被害者ぶっているのか
まずLGBT差別と「生産性」論でマイノリティに襲い掛かったのは杉田氏及び新潮45の側です。差別とは人の魂を傷つけて殺すものですし、最悪の場合は実際に死者が出ることもあります。LGBTの自殺率が高いことに笑いながら言及した杉田氏はそのことを知っているはずですし、生産性で人の価値を図った相模原事件のようなヘイトクライムもすでに発生しています。
すなわち、杉田氏と新潮45はマイノリティの集団に向かって機関銃を乱射したも同然で、こんなもの各メディアから批判されない方がどうかしています。しかも、これらの批判は杉田氏や新潮45の「属性」ではなく「行為」を理由としたものであって、LGBTや「生産性」論によって他者の属性を攻撃した杉田氏・新潮45と好対照をなす、極めて正当な批判です。
「生きづらさ」も何も、それは確かに日本はマイノリティにとって問題のありすぎる社会でしょう。なにしろ、与党政治家と有名出版社がその発信力を武器にいきなり襲い掛かってくるほどなのですから。こんなものは政治が生きづらさをどうこうする以前も以前の問題で、単に「お前らはマイノリティを襲うな」の一言で済む話です。
新潮45とは一体どこまで無知なのか、あるいは恥知らずなのか。開いた口が塞がらないとはこのことです。

「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」。出版各社が「新潮45」批判RTの新潮社アカウントに援護射撃

新潮社内部にもまともな人がいるのか、新潮45に対して批判的ともみなせるツイートやリツイートを行い、他の出版社も援護している、という話。これを理由に新潮社内のまともな人々を称賛する声もあるようですが、私としてはそんなものは到底称賛になど値しないと考えます。
新潮45は何の罪もない人々を、LGBT差別及び「生産性」論によって思いきりぶん殴りました。それに対しては当然、当事者及び周囲の人々から「何をするんですか!」という声が上がるわけですが、それを受けて新潮45は再びマイノリティの人々をこれ見よがしにぶん殴りました。
こんな異常者に対して同じ組織の人間がやることが、新潮45の姿勢に批判的とも取れるツイートだとか、新潮を批判するツイートのリツイートですか。新潮45が拳を真っ赤にしてマイノリティをボコボコぶん殴っている最中に、遠くからポップコーンを投げているようなものではないですか
こんなものを会社の良識、自浄作用とみなすわけにはいきません。同じ組織内の狼藉に対し、せいぜいポップコーンを投げる程度の抵抗しかできないのであれば、そんな組織はすぐに差別連中に飲み込まれてしまうでしょう。新潮社の創業者・佐藤義亮氏の「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」の言葉を引くからには、さすがに殺されて来いとまでは言わないにしても、それを引くに恥じない覚悟は見せてもらわねばなりません。
新潮45がマイノリティを殴りつけている場面に割って入り、新潮45を全力でぶん殴り、人々に「うちの会社の者がご迷惑をおかけしました」と頭を下げてから新潮45を引きずって帰る。これくらいはできなければ、到底称賛に値する域には達しません。組織の論理だの何だのは、殴られている人々には関係ありません。

ただ、新潮だの講談社だのの醜態を見ても分かるのは、つくづくヘイトは日本において魔法の杖であるということ。
これをかざせばあら不思議、冴えない自称活動家の下に人と寄付金が集まり、字幕だらけの実にくだらない手抜き動画でも利益が出せるようになり、出版不況で悪戦苦闘していた書店では本が売れるようになり、出版社も一山当てることができ、政治家は固定的な支持層を確保できる。これが日本社会におけるヘイトスピーチの位置です。
無論、タダでそんな錬金術のようなことは起こりません。その代償として、まずマイノリティに対する差別が扇動され、マイノリティにとっては生存権すら脅かされるような社会となります。これで大金が生み出されているわけですから、その代償がどれほど大きなものとなるかは容易に想像できようというもの。しかし、どれほどマイノリティが地獄のような苦しみを味わおうとも、出版社などの「売る」方には何の打撃もないため、彼らには高い倫理観や想像力が求められるのです。
それでもなおヘイト商売をやめないでいれば、その次には自らの会社及び業界が築いてきた信頼が破壊されます。例えば私は本が好きですが、以前にとある書店でヘイト本コーナーが作られているのを見て以降、その書店チェーンでは一切何も購入していませんし、立ち入りも控えています。私は本が好きなのであって、魂を削られるために本屋に行くわけではないからです。たとえヘイト商売をやめたとしても、当面はそこで本を購入したいとは考えません。今回、これと同様に新潮の態度に激怒した人は多いのではないでしょうか。
結果、ヘイト書店やヘイト出版社から本を愛する人は立ち去り、代わりにその大半は特に本を愛してもいないレイシスト相手の商売となり、ヘイト本ブームが終わった時には焼け野原が広がるのみ。それから頑張っていい本を出したとしても、「あのヘイト出版社の本か」とみなされるだけです。
ヘイト商売とはすなわち、他人の生命や平穏な暮らしを生け贄とし、自社及び自分の業界を切り売りする行為であると認識し、この呪われた魔法の杖を手放すことができるかどうか。「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」の名言が何を戒めているのか、果たして彼らには理解できるでしょうか。

「新潮45」2018年10月号特別企画について

新潮社からのアナウンスが出ましたが、結局何が言いたいのか。何か書いているようで何も書いておらず、意味のある文章とはみなせません。
もし本件を本当に問題であると考えるなら、即刻それに見合うだけの極めて厳重かつ徹底的な処分を発表し、今後一切差別をしないことを会社として誓約し、態度で示すしかありません。良心に背く出版の代償は、断じて小さなものではありません。

新潮社の本を棚から撤去 和歌山の書店、新潮45に抗議

小規模の本屋さんのようですが、良い動きです。
言論は言論として認めるべきですが、差別は言論ではなくただの暴力です。書籍などを通して言論に携わろうとする者は、言論を悪用して使い捨てにし、被害者と言論の両方を同時に踏みにじる暴力にこそ敏感でなければなりません。
LGBTや○○人といった「属性」を理由として、そうした属性を持つ人々の尊厳を踏みにじり、魂を殺していい権利を持つ者などこの世にいません。差別を言論と位置付けることは、すなわち誰かが特定の属性の人々の尊厳を踏みにじり、生命や平穏な生活を脅かしても、それは自由であって別に構わないと主張しているのであり、それ自体が差別でしかないのです。
この店主の方は、おそらく真に本が好きな方なのでしょう。新潮社の創業者の言葉の意味を、書物の持つ力とその責任を、新潮社や講談社のヘイト本関係者、あるいは大手のヘイト書店の面々が寄ってたかっても到底理解できないようなことを、本を大切にしている小規模書店の店主は深く理解している、というのは極めて象徴的な図式ではあります。

2018-09-15 の記事 - 2018-09-15
ネットの「デマ」、名誉毀損で刑事告訴へ 翁長氏後継・玉城デニー氏

素晴らしいことです。
で、本土の立憲野党は?いつまで沖縄におんぶにだっこを続けるのですか?沖縄が貶められ、ターゲットにされ、それに抗おうとする人に対するデマが垂れ流されるのは、すべて本土の都合です。
本土の立憲野党が日ごろデマに厳しく対処しないから、沖縄でも悪質なデマが流されることになるのです。反撃がどれほど効果的かは、不当懲戒請求への反撃が示してくれている通りです。本土の立憲野党こそ、普段からデマに対して徹底的な法的措置で対抗しなければなりません。

台湾の従軍慰安婦像に蹴りを入れた藤井実彦とは何者なのか

海外に出向けば恥をさらす。日本の地位は貶める。二度と海外に立ち入るな、日本からも出ていけ、国賊が

日本のレイシスト連中がどこまで腐りきっているかをよく表している、徹底的にどうしようもない愚挙です。これにて台湾の心象は極限まで悪化し、慰安婦像の設置を妥当なものとみなしたことでしょう。かつての「The Fact」やスパムメール爆撃と同じことをまたしても繰り返したわけです。
この国賊と違い、像に対して何ら憎悪を持たない私としては設置が固定化しても全く構いませんが、像を通してその向こうにいる人間の尊厳を足蹴にしたこと、それによって日本の品位を極限まで棄損したことなどを決して許すことはできません。
ただ、これが恐ろしいのは、日本国内ではこの手の主張は全く珍しいものではなく(例えば作家の筒井氏は極めて下品な表現で像を貶めている)、それどころか生身の人間に対する攻撃すら平然となされていて、今回の件にしても日本国内での内輪受けを狙ったものであろうということ。今回は海外の目に触れ、国内と違ってまともな感覚であるがゆえに大問題になりましたが、これが海外の目に触れなかったり、国内で完結している場合には、レイシスト連中の拍手喝采で終わったことでしょう。
この国賊の行動は、単に日本国内に存在する願望を実際に形にしただけと言っても過言ではなく、この問題はそのまま日本の異常性を写す鏡となっているのです。

なお私は、慰安婦像は設置した方がよいという立場です。理由はこの国賊を見ての通り。日本が本当に過去と向き合うことができているのなら、レイシスト歴史修正主義政党が与党となり、歴史どころか少し前のことすら修正するレイシスト首相が大手を振るような異常事態にはなりませんし、地方政治でも東京の石原〜小池、大阪の維新といった恐ろしいことにはなりません。
今回の国賊及び国賊の同類が日本にはびこっている限り、こういったモニュメントの存在価値が増すことはあっても減ることはありませんし、こうした国賊の存在とその異常性を海外に知らしめる点でも大きな効果を上げています。単なる像でありながら、ここまで明瞭に深刻な社会問題の存在をあぶり出し、世界に問題提起ができるような像が他にあるでしょうか。
もし像が必要なくなる時が来るとすれば、それは日本人がこうした国賊及び国賊の同類と戦って勝利し、ヘイト政治家を政治の場から締め出し、自分たちの意思でレイシズムや歴史修正を否定し、歴史と向き合った時でしょう。

最新調査で判明、インターネットはこうして社会を「分断」する

安田浩一氏の記事を見たついでに読んだ記事ですが、何ですかこれは。
レイシストがタコツボの中に入ると極端な方向に走るのは確かで、それゆえに街角で「朝鮮人を皆殺しにしろ」だのと吐き散らしたり、女子中学生が「鶴橋大虐殺を起こしますよ」だのと背筋が凍るようなことを叫んだり、慰安婦像を足蹴にして国際問題になったりするわけですが、なぜここで「アンチ排外主義」までが極端化だの、果ては敵味方感情だの分断だのという奇妙な話が出てくるのか。
実はこの記事、1つ重要なピースが抜けています。怪談話などで、登場人物が無事では済まなかった場合の定番のツッコミとして「あなたは一体どうしてその話を知っているのか」というものがありますが、本件については「では、その両極の先鋭化を俯瞰しているらしいあなたは、一体どこに立って眺めているのか」と問うことができるでしょう。
というのは、いわゆる穏健派、中立や中庸を気取る意見こそが実際には極端であることは珍しくなく、この重要な点を抜きにして極端や分断を語ることはできないためです。

例えば、レイシストは街角で平然と「○○人を皆殺しにしろ」と主張しています。一方、反差別者は「そんなことは許されない」と主張しています。では、そのどちらの極でもない、すなわちここで言う「極端」には属さない「穏健」な立ち位置とはどこなのでしょうか。
単純に真ん中に立つとすれば、「○○人は半分殺せ」です。両方ともおかしいというのなら、つまり「○○人を皆殺しにするのはおかしいが、○○人を殺すのを許さないのもおかしい」ということです。無関心ならば「○○人が皆殺しにされようがされまいが、どちらでも構わない」。自分や近親者は殺されても構わないと主張することはないはずで、これはすなわち○○人の生命は無価値とみなしていることを意味します。では果たして「極端」でない人、「穏健」な人は一体どこに立つ気なのか。
実際のところ、この場合に極端でない意見、穏健な意見は反差別だけです。たとえ反差別に加わらない範囲でギリギリまで反差別側に寄り、最小値を用いて「○○人を○○人という理由で1人殺せ」と主張したとしても、これは十分に極端な意見です。「殺すな」が極端ではない唯一の解なのです。

むしろ日本社会は、いわゆる「穏健」、中間や中庸的な極端に走ることに対して最も無防備であり、それこそを一番に警戒すべきでしょう。差別や人権無視、不正のような明らかにおかしい主張や行為について、「正しい」「間違っている」「どちらともいえない」の中から「間違っている」を選べず、中庸を取ろうとする極端、と言えばイメージしやすいでしょうか。そしてそれは、理不尽な差別や人権無視による被害を受ける人々と、中庸に走ろうとして間違いを間違いとさえ言えない「穏健」派の間の地点で、社会が分断されることを意味します。
また、日本には中間を大人の対応とみなす珍妙な価値観があります。しかし、差別や人権無視のようなおかしい問題について、なんでもかんでも中立を気取ったり、両論併記をしようとすることを大人の対応とは言いません。それらをきっちり叱り、否定し、対処することか大人の対応です。
そして、この幽霊のようないわゆる穏健が、そのタコツボの中で意見を強化してしまうと時に恐ろしい結果を招きます。関東大震災時、差別デマに踊らされて動乱に加わった人の中には、いわゆる「普通の人」が大勢いました。当然、虐殺を防いだり被害者をかくまったりした人もまた存在し、勇気ある逸話も残されていますが、この状況でそうまでして虐殺に立ち向かった人々は「極端」であるわけです。
この記事のような角度から極端を語りたいのであれば、いわゆる穏健を極端の外の存在とするのではなく、それもまた極端の一形態であると位置づけることが最低限必要です。