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雑記帳(過去ログ)
2017-03-24 の記事 - 2017-03-24
証人喚問によって籠池氏に良いイメージを持つ人が出てきてしまっているようですので、ここで一応取り上げておきます。

「安倍首相の耳に悪い情報を入れた人がいた」森友学園・籠池氏、記者会見で国有地売却問題に言及

これは日本外国特派員協会主催の記者会見での籠池氏の言い分ですが、例の選手宣誓の正当性について述べるなど、まさにこの人物の本質がレイシストであり、年端もいかない幼児に異様な教育を施そうとする異常者であることが見て取れるものとなっています。他にも日本人は優しい民族だの性善説だの、陳腐な日本人至上主義という以前の問題として、まず鏡を見てから物を言えと言わざるを得ない言葉が並んでいます。
ただ、はっきり言って今の日本社会はレイシズム天国ですから、こうしたレイシズムですら自然に受け入れられかねない空気があることは否めません(なお、もしこの会見内容を読み、人種差別の観点からさほどおかしいと感じなかった人は相当毒されています。それこそ、もはや「○○人は死ね、殺せ」の言葉が出てこない限りはおかしいと感じなくなるほど感覚がマヒしています)。
そういう意味では、より客観的にレイシズムを見ることができるであろう外国特派員協会の会見でこれが行われてよかったと言えるかもしれません。

籠池氏への好印象という、いわば泥棒が人助けをした時に大きく持ち上げられる現象に対抗するためにあえてはっきり書いておきますが、籠池氏は人種差別、すなわち立場の弱い相手をその属性に基づきターゲットとする行為を平然と行い、かつ教育の名を借りて反論も抵抗もできない幼児を虐待するなど、自分よりも弱い相手を平気で踏みにじり、人としての尊厳をズタズタに引き裂く、まさに人間のクズの見本のような存在です。
無論、それでも籠池氏が証言をするのなら聞くべきですし、その証言が全容解明に役立つのなら当然それは適切に活用されるべきです。しかし、そんなものは救いようのない凶悪犯罪者が仲間に見捨てられて捕まり、怒り狂って共犯者の情報を自白しているのと同じです。その情報は適正に評価し、有用なものに関しては活用されるべきですが、その人物は救いようのない凶悪犯罪者以外の何者でもありません。
籠池氏は信奉していた保守派とやらに次々と切断処理されており、そういう意味では気の毒ではありますし、同情には値するかもしれません。しかも籠池氏自身は何の力も持たない一人の異常者でしかなく、本人だけで大それたことができるわけがありませんから、氏をいわば実行犯として用いておいて、しかも騒ぎになったと見たら切り捨てている者がいることも確かでしょう。その観点からは氏もまた被害者の一人であると考えることは可能です。
しかし、人種差別や児童虐待を行ったのは籠池氏本人の意思であり、少なくともこの点について氏は一方的な加害者に他ならず、正当化の余地は一切存在しません。教育者という自らの立場を最大限悪用し、立場が弱く抵抗することができない他人の尊厳を容赦なく踏みにじる、まさにカス以下のカスに対する同情の言葉を、私は一言たりとも持ちません。
この人物はもはや、日陰から出してはならない存在です。少なくとも「差別は過ちでした。被差別者の方々、すみませんでした」「あれが教育などとは間違っていました。私がやったことは虐待でした。許されないことです」と自らの行いを正しく認識して反省し、二度としないことを確約し、しかもそれを誠実に遵守しない限り、決して日向を歩かせてはならない存在なのです。
氏について「そのうち候補者にでもなるのでは」と評する声を見かけましたが、まさに今の異常化した日本を見る限り、それが当たらずとも遠からずになってしまいかねない嫌なリアリティがあります。長谷川豊氏の件などを見た後では、これを笑って済ませることはできません。
本件を政治問題として考えた場合に、氏がいくら捨て犬のようなかわいそうな存在に見えたとしても(それこそ日本会議や安倍一派のような連中にぶら下がった時点で、私には自業自得にしか見えませんが)、一方で氏が自らの意思で能動的に人種差別と児童虐待を行い、何ら落ち度のない他人をズタズタに傷つけた人物であることを、決して忘れてはいけません。

なお、差別や虐待に関しても、籠池氏だけを断罪すれば済む問題ではないことは念のため言い添えておきます。日本会議や安倍一派もまた、氏と人種差別や虐待教育の理念を共有する存在であることは言うまでもありません。そもそも政治問題以前の話として、差別と虐待を理由として日本会議や安倍一派を追放することは、日本人が果たさねばならない責任なのです。

2017-03-19 の記事 - 2017-03-19
籠池氏の証人喚問ですが、私は特に期待していません。自民党が同意した以上、籠池氏を呼んでもダメージを受けないような準備が整っていると考える方が自然であり、自民党にとっては籠池氏に責任や汚点、嘘つきの烙印を押し付け、一連の問題ごと切り捨てても何のダメージもありません。
偽証ができないこととされている証人喚問の席で「なかった」と言わせれば、それが事実にせよ虚偽にせよ否応なく説得力を持ってしまいますし、あるいは逆に籠池氏に明らかな虚偽事実をベラベラしゃべらせて大嘘つきに仕立て上げ、追及を全部無力化してしまうことすら可能です。
野党は無理にこれを突破口にしようとするよりも、籠池氏が真実を語ろうとも、嘘八百を並べ立てようとも、問題があったと証言しようとも、なかったと証言しようとも、安倍一派の切り捨てに怒って報復する気であろうとも、逆に懐柔済みであろうとも、どう出てきたとしても無関係に、内閣追及を継続できる姿勢を整えておくべきです。
ここで無傷のまま逃げられれば、マスコミのコントロールはより強化され、問題が報道されることはもはや期待できなくなりますし、緊急事態条項も十分に射程範囲内となるでしょう。あのような異様な教育が行われるような国こそが安倍一派や日本会議の理想ですが、その狂った理想の世界に行き着くまでの距離はもう決して長くないのです。

人権電話相談、英語・中国語→6カ国語対応に 法務省

これ自体はよいことです。
ただし、いくら相談対応言語を増やしたところで、相談の効果が薄ければ仏作って魂入れずというものです。街角でのヘイトデモから一対一での人種差別に至るまで、差別によって蹂躙されている人はいくらでも存在しますが、問題はそうした卑劣な加害行為に対し、何か有効な手立てを打てているのか否かです。
街角でのヘイトデモは市民活動の結果として減少しましたが、震災時には虐殺扇動デマが飛び交い、障碍者虐殺事件や透析患者を殺せといった異様な行為や言葉が横行し、沖縄ヘイトが平然と電波に乗って垂れ流され、ヘイト学校法人と政治が懇ろなどというのは、状況としては明らかに異質な方向へと進んでいると言うことができるでしょう。
異常事態だから相談言語を拡張するのだとすれば、それはそれで教科書的な意味で正しい対応ではありますが、現実的にはあまり意味のあるものとはなりません。結局、これでどれだけ加害を食い止められているか、言語を増やすことでより加害を食い止められるのかどうかが重要なのです。

さて、最近話題になっている宅配業者の負担と値上げの話。
これを「アベノミクスの成果」などと称する、「良いことは神様のおかげ、悪いことは努力が足りないから」と同等のことを言う無能者のおかげで、もはや安倍氏の経済政策や内閣は「信仰」の類であることがよく分かりましたが(*)、今回これは置いておきましょう。
値上げ自体は支持しますが、それで解決する問題ではありません。無理がある状態で少々の価格転嫁を行ったとしても、せいぜい無理な状況を若干遅延させる程度の効果しかないでしょう。それより問題は、日本社会が妙な価値観から脱却できるかどうかです。

(*)悪いことに対する例: 麻生氏「(結果を)出していないのは、よほど運が悪いか、経営者に能力がないから」
良いことに対する例: 菅氏「ネット通販の急成長と昨今のアベノミクスの成果で、需要・供給両面から宅配、運送業のコストが高まってきている」

私は海外のパッケージ版ソフトウェアが欲しい場合に輸入することがありますが、その場合の発送は必ずしも十分なサービスと呼べるものではありません(なお、海外では現地の業者、日本に入ってからは日本郵便の取り扱いになるので、日本に来てからの扱いは通常の郵便物と同様)。理論上は1週間ほどで十分なはずが、発送通知後3週間ほど待たされても怒らない寛容さが必要ですし、インターネット上ではなかなか悲惨な目にあった人の体験談などもちらほら見かけることができます。
日本のサービスは世界一、であるかまでは分かりませんが、こと運送に関しては非常に高い水準のサービスとなっていることは間違いないでしょう。
しかし、日本没落の結果として異様な日本スゴイ論が吹き荒れる中、考えもなしに「さすが日本はスゴイ!世界が驚く日本!」などと反応するようではどうしようもありません。はっきり言ってそんなものは、博多で危険な陥没事故が発生したにもかかわらず「あっという間に復旧がなされた!日本スゴイ!」と適当なことを吹聴していた連中と何も変わらず、無益などころか有害です。運送業が切羽詰まった状況にまで追い込まれてしまっている現状を考えれば、ここは逆に「日本の恥だ」と考える方が正解だと言っても過言ではありません。
非常に良質なサービスを低価格で受けることは、普通は不可能です。それが実現しているとするならば、どこかに必ずそのしわ寄せを受けている人がいます。今回問題となっている宅配業界はもとより、飲食店業界などでも問題になったことがありますが、まさにそれを被るのが業界の末端の人々であるわけです。世界一のサービスとやらは、誰かを足蹴にすることによって実現されているのです。
ちなみに、これは最近見直されているという「古き良き地域コミュニティ」的なものに関しても同様で、どうしてこれが一部の人にとって非常に良いもので、しかも(少なくとも都市部では)崩壊したかというと、そのために犠牲になる人々がいたからです。このところ、日本を「古き良き時代」に戻そうとする人々が嫌というほど醜態をさらしていますが、単純に時計の針を戻すことがあってはならないのです。
非常に高い水準の利用料金を支払うのが嫌ならば、ほどほどのサービスで満足するようにしなければ、運送業から飲食店、交通業、その他様々な業界が抱えるこの種の問題が解決することはないでしょう。これはつまり、上記の通り「低価格で世界一のサービス、日本スゴイ」から「低価格で世界一のサービス、日本の恥だ」への価値観の大転換が必要であり、相当に困難なのは確かです。
普段はおもてなしなどと言いつつ、肝心の外国人には散々ヘイトスピーチをくれてやっておいてサービスもないものですが、こと国内向きな部分について言うならば、今の日本に必要なのは「おもてなしの精神」とやらではなく、「おもてなしなどクソくらえの精神」です。

2017-03-11 の記事 - 2017-03-11
森友・籠池理事長、退任の意向 娘に引き継ぐ考え

【森友学園】小学校の認可申請取り下げ、籠池理事長は辞任へ 長男「安倍晋三総理以下、どうぞよろしく」

籠池氏の責任の取り方としても、一連の政治問題としても、どちらの観点から見ても全くの無意味です。

氏が理事長を辞めたところで、同様の思想を持つ一族に地位を譲るのでは引責になっていませんし、それで自分は完全引退して二度とかかわらないと確約するならまだしも、籠池氏は今後とも何らかの形で運営にかかわり、学校開設にも再びチャレンジする意向を平然と語っています。これではただ理事長の名前が書き変わるだけに過ぎず、実質的には何の意味もありません。
安倍記念小学校の認可が絶望的となって取り下げられたこと自体は、何ら落ち度のない児童が虐待される恐れがなくなったので喜ばしいことですが、このような学校が認可される可能性があったこと自体が最初からおかしかったのであって、ただ本来通り得ないものが通らなかっただけです。通っていたら莫大なマイナスであったものがゼロになっただけで、何かが良くなったわけではありません。
当然、本人は何が悪かったのかなど全く理解していません。たとえ腹の中では再びやる気であったとしても、これを悪事だと認識していれば口先では取り繕うはずで、堂々と今後もかかわるだの再申請だの口にするわけがありません。今後も条件さえ整えば、不正でも虐待でもヘイトスピーチでも行うことにためらいはないでしょう。安倍一派や日本会議関係者の例に漏れず、あまりにも異常な人間と言わざるを得ません。
繰り返しますが、状況は何一つとして変わっていません。尻尾を切られて責任を押し付けられたはずの籠池氏すら、責任を取るようなことは何もしていないのです。

そして当然、この「何も責任を引き受けていない引責」によって一連の政治問題を終わらせることがあってはいけません。
そもそも今回のような幕引き演出は、以前からある程度予想されていたことです。さすがにここまで徹底的に責任を取らない引責によってそれがなされるというのは悪い意味で予想以上でしたが、いずれにせよこの問題に触れられたくない自民や維新といった連中にとって、森友学園や籠池氏は鼻つまみ者でしかありませんでした。
あれだけ大絶賛して懇意にしていた相手を少しは擁護してやるどころか、そろいもそろって情け容赦なく切り捨てにかかる様は無残としか言いようがなく、安倍氏と食事友達のマスコミの面々には「籠池氏は明日のあなただ。本当にそれでいいのか」と問いたいところですが、ともかくこれが彼らにとっての最適な落としどころであるわけです。
しかし言うまでもなく、森友学園と政治をめぐる問題には現状ほとんど手が付けられていません。安倍夫妻やその同類と仲良しの日本会議の相手に対し、国民の財産から異常なプレゼントがなされ、認可がやたらと上手くいき、しかも虐待ヘイト教育が安倍夫妻などから大絶賛されていたことについて、まだ事実はほとんど解明されておらず、しかも誰一人として責任を取った者はいません。籠池氏らは単に妄想をこじらせた異常者でしかなく、政治の力なしには大それた不正も小学校設立も何もできなかったはずなのに、です。ここで追及が消滅するならば、本件は「うやむや」どころか「一切不明のまま」終わることになります。
繰り返し述べていますが、この問題は現代日本社会の病理が表面化したもので、その地下には安倍内閣、日本会議、自民、維新、自称保守が実現させようとしている教育、ヘイトスピーチといった現代日本をむしばむドス黒い根が広がっています。これに切り込まないことはつまり、現代日本の問題に背を向けることと言っても過言ではありません。
同時に、在特会のヘイトスピーチ、親学による発達障碍児に関する偏見扇動などがそうであるように、また今回も安倍一派・日本会議連中らの理想の教育(虐待)やヘイトスピーチによる被害者が出たように、彼らの妄想が実現されれば必ず被害者となる人が出ます。決して放置してはならない問題なのです。

そして、仮にこのままこの問題が消滅してしまい、事実を明らかにすることも政治家に責任を取らせることもなく終わってしまったらどうなるか。
政治家連中がどれほど悪質で根が深い不正を行っても、下っ端が引責にも何にもなっていない引責ごっこをすれば万事解決、という最悪の前例が作られることになるのです。いらなくなった者を切り捨てて済ますのは連中の定番ですが、それどころか籠池氏のようなつまらない下っ端にすらダメージがない、不正連中にとってはこの上なく最高の展開です。
今回の件ほど(主に登場人物のせいで)次から次へとボロが出るような問題もそうそうなく、それですら今のところ責任を取った者は事実上一人もいませんので、これさえ前例にできればもはや大抵の不正はフリーパス、今後は政治家はおろか鉄砲玉ですらもろくに責任を取らなくてよい状態となることでしょう。

今回の問題、籠池氏の辞任や認可申請取り下げによって終了させようとする試みを見ても分かるように、安倍一派が一定の危機感を持ったことはおそらく確かです。マスコミが連日この問題を報じ、森友の問題は世の中に広く知られることになりましたので、とうとう支持が揺らぎかねないというわけです。
ただ、安倍内閣は政治でも閣僚の不正でも教育思想でも差別扇動でも、これまでいくらでも問題となるようなことをやってきました。森友の件はその多数の問題の中の1つでしかなく、違いといえばある程度の報道がなされたか否かだけです。たかだか森友の一件だけでここまで簡単に大騒ぎとなり、内閣の支持が揺るぐほどの衝撃となるのであれば、これまでの問題がしっかり報道されていればどうなっていたかは言うまでもありません。
森友学園の教育やヘイトスピーチなどは異常なものとして世の中に強い印象を与えましたが、安倍夫妻が教育方針を絶賛したことからも分かるように、安倍一派が同様の思想を持っていることは以前から周知の事実でした。今さら異常だ異常だと騒がれても、たかだか学校法人の理事長が異常と発覚したら報道する割に、その異常な思想を持つ内閣が何年も前から日本のトップに君臨して政治を動かしているのにそれを報道しなかったのは何なのかと言わざるを得ません。
また、本件によって支持離れが発生しているとしても、おそらくその理由の多くは「森友学園の疑惑が報道されているから」であって、「森友学園が見せつけてきた異常さを通じて、自らが支持していた内閣の狂気と異常さを認識するに至ったから」である割合は残念ながら低いであろうと言わざるを得ません。であるならば、これで報道が先細りになれば問題はすぐにでも消滅してしまうことでしょう。
安倍一派・権力にとって危機的であるこの問題が、たとえ不十分であってもしっかり真相究明に向けて追及されていくか、このまま消滅することで逆に好き放題不正を行っても大丈夫な前例に作り替えられてしまうかは、メディア次第の状況です。そして私は、つくづくそれに期待していません。

2017-03-05 の記事 - 2017-03-05
今なお次々にやりたい放題が明らかとなっている安倍記念小学校問題。
実際のところ、私は本件には必ずしも期待していません。もし以前の通りに報道が機能していれば、この政権や自民党はもうすでに指折り数えても指が足りない程度の回数は倒れていたはずであり、今までにそれすら全く行えていない以上、現状に期待することなどできません。
ただ、あくまで希望を述べるならば、最低でも安倍氏の首は取るべきと考えます。

現政権は「盤石」などとも言われていましたが、現実にはこの政権は全くそれとは程遠いところにありました。立憲主義違反から強権的手法、閣僚の不正や暴言まで、ありとあらゆる種類のゴミにまみれた政権でありながら、ゴミを埋めて隠すことによって盤石であると見せかけていただけなのです。
今回の安倍記念小学校問題にしても、今までは徹底的に見て見ぬふりを決め込んできたマスコミが、ようやくゴミを指さして「ゴミがあるぞ」と言い出しただけにすぎません。マスコミがそれを指摘したか否かに関係なく、ゴミは以前から変わらずそこに鎮座していたのであり、ただ報道がその役目を放棄していただけです。
事実、安倍政権がもともと異常な思想を持ち、教育に介入したがり、親学カルトと通じ、日本会議と関係が深く、人種差別を根底の思想としていることなど、少しでも政治について知識のある人なら誰でも知っていました。塚本幼稚園にしても、安倍夫人が絶賛する異様な幼稚園として以前からそれなりには知られていました。今回の一連の問題はそれが単に表面化したものですが、そんなものは「今さら」なのです。

今回、ようやくメディアが報道せざるを得ない状況となっていますが、野党にせよまともなマスコミにせよ、ここで可能な限り深く切り込み、最低でも安倍氏、可能ならば日本会議まで踏み込んで首を取る決意が必要です。というのは、この数年にわたってゴミの山を指さして「ゴミがあるぞ」と言うことさえ放棄してきたマスコミと、そのせいで実態はボロボロであるのに何年も継続してしまった現政権の悪夢を見る限り、ここを逃せばそのまま終了まで行ってもおかしくはないためです。
無論、それで本当に終了なのか否かを知るすべはありません。しかし、秘密保護法、安保による立憲主義無視に加え、共謀罪の成立、そして危機をあおることによって憲法改正の機運を高め、緊急事態条項が成立してしまえば、もはやこれまでです。これがあれば選挙を行わないことさえも可能となり、かつデモはテロと放言するような連中が共謀罪などを好き放題に振り回すことになります。
現実の状況を見ても、テロを口実にした共謀罪などの準備は着々と進められており、安倍記念小学校問題が発覚しなければ特に障害となるものはなかったはずですし、問題があってすらこの状況です。メディアにしても安倍記念小学校の問題は報道せざるを得なくなりましたが、今後は別の政治問題や不正行為を報道してくれる保証は全くありません。この件で政府がマスコミ掌握をさらに強めれば、今後はもうこのようなことは二度と望めないかもしれません。
緊急事態条項まで行ってしまえば、もはや選挙をするかどうかすら自民党のお情け次第となります。そして、ここを逃せば自民党を食い止められるだけの機会が再び訪れるかは分かりません。したがって、少なくとも野党側には「ここで戦えなければ、もはや自力優勝はない」程度の覚悟が必要となります。

そしてまた、政治家にきっちり不正の代償を負わせる必要があるという意味でも、安倍氏を追い込むことは非常に重要です。
たとえ森友学園に土地を返却させたり、学校を不認可にしたとしても、それだけではあまり意味がありません。不正がバレてしまい、どれほど大きなスキャンダルを引き起こしても、最悪でも学校側などの末端に責任を押し付けて切り捨てれば済むとなれば、不正政治家にとっては大した痛手とはなりません。しかも、現実にはここまで巨大でドス黒い問題などそうそうありませんから、これよりも軽い大抵の不正のハードルは相当低いものとなるでしょう。
そして、これほどの問題を起こしてもなお辞任でも何でも回避できてしまうのなら、それは今後このような異常な学校が日本各地に次々と現れ始めたり、お友達への国有財産プレゼントが平然とまかり通るようになってもおかしくないことを意味します。国の財産によって資産面で支援された日本会議系の学校法人が、政治家の庇護と看板の下、児童を虐待し、教育勅語を朗読させ、安倍総理を称賛させ、外国へのヘイトを刷り込む、という悪魔のような学校がそこかしこに誕生したならば、これはもう悪夢と呼んで差し支えないでしょう。
あの教育を大絶賛する安倍夫婦や、講演を行うなど森友との関係があった自称保守の面々を見ても分かるように、あのような教育こそが日本会議や自民一派にとっての理想なのです。あれをやっても政治家にダメージが及ばないことが裏付けられれば、もう歯止めとなるものはありませんから、彼らが今後とも日本会議関係者への利益供与を行い、また塚本幼稚園や安倍小学校と似たようなものを(さすがに多少は手を変え品を変えるとしても)さらに作りたがるのは必然と言ってもいいでしょう。
したがって、政治家によるお友達への国有財産プレゼントを行わせず、また二度と日本会議カルトによる児童虐待やヘイトスピーチがなされないようにするために、何としても安倍氏やその他の関係者に責任を取らせる必要があるのです。そして当然、日本の病巣である日本会議にまで切り込んでいくことも重要です。

ただ繰り返しますが、私はそれほど期待はしていません。きっちりとそれができる国ならば、ここまでひどい状況に陥ることはなかったはずです。
立憲主義破壊の時点で「立憲主義は破壊させない」という意思を示すことすらできなかったこの国で、お友達に国有財産をプレゼントして異常な虐待ヘイト教育をさせたことに対して「不正はさせない、虐待ヘイト教育はさせない」との意思表示がなされるかといえば、全く期待できないと言うしかありません。

2017-02-26 の記事 - 2017-02-26
安倍晋三記念小学校の件。役者は安倍内閣、安倍夫人、役所、維新、日本会議など腹黒オールスター勢揃いといった面々であり、その問題もまた行政側による不透明で異常な便宜、安倍氏を称賛する教育、安倍夫人による絶賛、神道カルト、ヘイトスピーチ、児童虐待など日本の闇を全部ねじ込んだかのような異様なものだけに、切断処理、爆弾の押し付け合いが始まっています。

昭恵氏、新設小学校の名誉校長を辞任 森友学園問題

安倍晋三記念小学校の名誉校長であるばかりか、児童虐待幼稚園である塚本幼稚園を大称賛していた安倍夫人、名誉校長を辞任。断ったのに勝手に名誉校長とされ、結局断れなかったということになったようです。あれだけ大絶賛していたのなら、少しはかばってあげてもよさそうなものですが、薄情なものです。

「安倍晋三記念」名で寄付集め、首相が抗議 森友学園に

安倍氏もお得意の尻尾切りを始めました。やましいことがある時には激昂したり、野党がどうのこうのと言い出すので、ある意味で非常に分かりやすい人物です。学園側もよくも学校にこんな人物の名前を付けようなどと考えたものですし、そこまでやった末に待っているのはこの通り、切断処理です。

大阪知事、不認可の可能性に言及 森友学園の小学校

本件については、やたら認可が容易に進んでいることについても疑問視する声がありますが、ここへきて松井氏も尻尾切りですか。虐待ヘイト学校法人に小学校などやらせるわけにはいきませんから、不認可自体は必要と考えますが、実にあわれな話です。なお松井氏は、森友学園の理事長と面識はないと主張しています。

国有地問題、財務省は調査を 松井大阪府知事

金額を誰がどう見積もったかが一番の問題で、明らかにすべきだ」だそうです。また、氏は職務怠慢として近畿財務局も批判しています。この分だと役人の誰かが責任を背負わされ、腹を切らされるのでしょうか。

稲田防衛相:森友学園に感謝状「取り消しも検討」

感謝状まで贈った相手にこれですか。マスメディアを含め、この内閣と蜜月関係にある面々は、少しでも都合が悪くなると明日にも責任を押し付けられて腹を切らされかねないことを、よく自覚しておくべきでしょう。

維新幹事長 「森友学園問題」維新の関与否定…民進のイメージ戦略と不快感

維新も切り捨てに入っています。この辺の変わり身の速さはさすがです。

橋下氏 森友学園の不可解売却に「やはり政治介入か」

橋下氏に言われてはおしまいですが、「こんなことを役所だけの意思でやるのか。やはり政治介入か」というのは、いわば大阪の役所から政治へと爆弾を投げ返したようなものでしょうか。

森友学園の幼稚園指導法、文科相「大阪府に報告求める」

その教育を大絶賛した人が安倍夫人であり、おまけに安倍夫人によれば「こちらの教育方針は大変主人もすばらしいという風に思って」いるそうですから、大阪に問題を投げる前に、ひとまず安倍夫婦にでも聞いてみてはいかがでしょう。

この問題もようやく、様々なマスメディアで見かけるようになってきました。ただし、現代日本の闇が一体となって形作られたのがこの問題であり、逆に言えばこれらの一部だけを取り上げてもあまり意味はありません。そして現状、ヘイトスピーチや神道カルトなどの部分については、土地に比べてあまり取り上げられていないと言わざるを得ません。
これらが全方位から取り上げられない限り、問題はどこかがうやむやのまま終わるでしょう。

2017-02-19 の記事 - 2017-02-19
安倍晋三記念小学校の件。近年まれにみるほどドス黒い根が複雑に絡み合った問題です。これがほんの少し前の日本であれば、大スキャンダルとして連日報道された上で一発で終わりになっていたでしょう。
以下、報道などで示されたことを簡単にまとめておきます。

・大阪府豊中の国有地が、学校法人「森友学園」に対して異常に安い価格(近隣の1割程度)で売却される。なお、鑑定評価額は9億5600万円、売却価格は1億3400万円、その差8億円以上。理由は「ごみの撤去費用を差し引いた」ためで「適正」であるという。
・また、これとは別に学園側にはごみ撤去費用として1億3176万円が支払われている。つまり、学園側は実質無料に近い額でこの土地を手に入れたことになる。
・このような土地の売却価格については原則公開となっているが、この土地の売却価格は学園側が非公開に同意したとして公開されていなかった。
・この土地の購入を考えていた別の学校法人は、11年にごみの撤去費用まで考慮して5億8000万円の購入を希望。ところが財務局から価格が低いと指摘されて断念した。
・国から異様な便宜を受けていたとしか考えようのないこの学校、現在名称は「瑞穂の國記念小學院」となっているが、資金の寄付を募っていた時の名称は「安倍晋三記念小学校」となっていた。
・しかも学校の名誉校長を務めるのは安倍夫人。なお、安倍夫人は塚本幼稚園(後述)を絶賛していることでも知られている。
・学校法人「森友学園」は「塚本幼稚園」を運営しているが、ここでは保護者に対して「よこしまな考え方を持った在日韓国人や支那人」などと書いた文書を配布。ヘイトスピーチの恐れがあるとして大阪府は園長らから事情を聴いた。
・また同幼稚園は、「当園に対する不当な誹謗・中傷記事が書かれたブログが立ち上げられ」ていて、調査の結果投稿者は「巧妙に潜り込んだK国人・C国人等の元不良保護者である」ことが判明したとするヘイト声明を公開。なお、伏字の部分を「韓国・中華人民共和国人」と伏字なしで書かれている版の文書も発見されている。
・当然、園児に対して中国・韓国への差別意識を植え付けるような教育も行われており、運動会の選手宣誓では園児に中国・韓国の批判をさせ、安倍首相頑張れと言わせていたという。
・この幼稚園に関しては、元園児の保護者を名乗る人がその実態を書いたブログを公開。それが事実であるとするならば、ほぼ虐待と言っていいような事例、理不尽な事例が並んでいる。
・もちろんというかなんというか、「森友学園」理事長の籠池氏は大阪の日本会議の代表委員である。さすが日本会議は期待を裏切らないといったところか。

実際にはもっと色々ありますし、判明していないことも多いはずですが、ひとまずこの辺で。これだけでも安倍氏周辺、政治癒着・不正、日本会議、ヘイトスピーチなど、現代日本の闇で数え役満ができるほどの異常に黒い案件であることが分かります。現在のマスコミの状態ではうやむやのまま終わるいつものパターンに入ることが十分予想できますが、はっきり言って異常事態でしょう。
そして、ここまで徹底的にドス黒い役満案件ですらうやむやに終えられることになれば、ましてや世の中の多くの黒い問題を追及できようはずもなく、まとめて手の届かないものとなることでしょう。

2017-02-12 の記事 - 2017-02-12
東京MXの番組「ニュース女子」(DHCシアターら制作)にて、沖縄に関するヘイトデマを垂れ流したとして問題になっている件。

MXテレビ番組をBPO審議へ

「ニュース女子」BPO審議へ 基地反対運動めぐる放送

私はBPOをそれほど信頼できる存在であるとは考えていませんが、それでも良識ある判断を期待せざるを得ません。
なお本件をめぐっては、「のりこえねっと」の辛氏の言動をあげつらうことで問題を正当化しようとする異様な主張も散見されますが、それで沖縄ヘイトデマの垂れ流し番組が容認されると本気で考えているのであれば、おかしいどころか狂っています
ちなみに、制作会社のDHCシアターの見解においては、なんと堂々と「基地反対派の言い分を聞く必要はないと考えます」と明言されています。

>そもそも法治国家である日本において、暴力行為や器物破損、不法侵入、不法占拠、警察官の顔写真を晒しての恫喝など数々の犯罪や不法行為を行っている集団を内包し、容認している基地反対派の言い分を聞く必要はないと考えます。

この理屈が成り立つならば、沖縄問題に限らず、人種や障害などへの差別、公害その他の国家の責任による病気や事故の賠償、政治への抗議、その他この世に存在するありとあらゆる問題について、抗議者のうちの誰かが不法行為を働いた事実があれば、あるいはそのような言いがかりをつけさえすれば、抗議側の言い分など一切聞かずに自由にデマを垂れ流して構わないということになります。
ついでにこちらも傑作。

>これら言論活動を言論の場ではなく一方的に「デマ」「ヘイト」と断定することは、メディアの言論活動を封殺する、ある種の言論弾圧であると考えます。

頭に「ある種の」と付いてはいるものの、言うに事欠いて「言論弾圧」とは。なぜこの手の人々はこういう言葉が大好きなのでしょう。言うまでもありませんが、これを「デマ」と指摘している人々は、言論活動によってデマであると非難しているのであり、DHCシアターに番組制作をやめさせたり同社作成の番組を放送させない公的な権力など有していませんので、どうあがいても「言論弾圧」などできようはずもありません。
仮にこのようなお粗末な理屈が成り立つならば、民主主義の法治国家における日本で展開されている抗議活動について、放送の伝播力を利用してデマを垂れ流すことこそ、ある種の卑劣な弾圧行為と言っていいでしょう。

ところで、問題となった番組の司会を務めていたのは長谷川幸洋氏であり、東京新聞・中日新聞論説副主幹を務める人物です。東京新聞側はこの件を「他メディアで起きたことではあっても責任と反省を深く感じています」「副主幹が出演していたことについては重く受け止め、対処します」としています。
しかし、長谷川氏本人の言い分はパターン通りのお粗末なものです。

東京新聞の「反省」、言論の自由侵害

東京新聞の論説主幹と私が話し合ったこと

DHCの「言論弾圧」に続いて出ました、伝家の宝刀「言論の自由」。もういい加減飽きてきたので、別の言い訳を考えてほしいものですが。
東京新聞がどうすれば「言論の自由」を侵害できるのか、という観点は先の繰り返しになるので見逃してあげるとして、言論の自由を守るためには、言論の自由の看板を使い捨てにしてデマやヘイトを垂れ流す連中とまず戦わなくてはならないことは言うまでもありません。

無論、会社が賛成と言っている問題に対し、単にその構成員が別の場所で反対と表明すること(あるいはその逆)自体は制限されるようなことではありません。それが他人の権利の侵害、人種や民族、障碍などに対する差別の扇動、犯罪の教唆といった行為である場合は別として、各人が何を主張しようと基本的には自由でしょう。
しかし本件の場合、まず番組は言論ではなくデマの垂れ流しが問題にされているのですから、主張の違い以前の問題です。氏によれば「論説副主幹を名乗ってテレビで発言したり意見を発表したのは、昨日今日に始まった話ではない。論説委員時代も含めれば、10年以上前からそうだ」「私はかねてから東京新聞と異なる主張をしてきた」そうですが、つまり単なる主張の違いに関しては、現に長らく問題とされてこなかったのであり、デマを垂れ流したから問題にされたとしか考えようがないのです。
そして、そのデマ垂れ流しによって何がなされたかといえば、沖縄ヘイトであり、他人の名誉を踏みにじる行為です。いくら主張は自由といっても、ヘイトを扇動していい自由、他人を踏みにじってもいい自由など存在しません(東京新聞は憲法が縛る対象ではありませんが、言論の自由なる言葉を振りかざされたからには持ち出すならば、憲法にすら「公共の福祉」は明記されています)。こんな蛮行がなされたとあっては、いくらなんでも東京新聞にとっては「本紙のこれまでの報道姿勢および社説の主張と異なる」ことでしょう。
それも、言論に無関係な会社なら「当該人物の主張は当社には関係ありません」で逃げ切れるかもしれませんが、言論機関である新聞社ともなれば、「テレビでデマを垂れ流し、ヘイト扇動行為にかかわった者は当社論説副主幹ですが、その主張は当社には関係ありません」で済まされては困りますし、そちらの方が「言論の自由」を預かる言論機関としての責任放棄です。
当然、会社の責任としても、また言論の自由を守る意味でも、厳正に対処することが必要なのです。

2017-02-05 の記事 - 2017-02-05
韓国デマサイトは広告収入が目的 運営者が語った手法「ヘイト記事は拡散する」

あまりにも許しがたいヘイトスピーチ(差別扇動)であり、レイシズムです。

>「怒っている人がいることは想像できますが、これが誰かの人生や、実生活に影響を及ぼすことはないんじゃないでしょうか」

無論、これは完全に間違っています。ヘイトスピーチは被害者を大きく傷つけ、多大なダメージや不安を与えます。激しい精神的苦痛から身体へのダメージまでもを引き起こしたり、身の危険を感じる人もいることは、在特会などの被害からも分かっていることです。
そして言うまでもなく、ヘイトスピーチはヘイトクライムを引き起こします。障碍者施設が襲撃されて大勢の人々が虐殺された事件は記憶に新しいですし、他にも模造刀で他人に斬りかかったり、現に児童がいる学校に嫌がらせ攻撃をしたり、事務所に押し入って事務員を脅したりと、幸いにも死者は出なかった例まで含めると、挙げるのもきりがないほどです。
本件のデマニュースにしても、デマであることを暴いた情報はデマほど広がっておらず、またデマ暴きを見てもなお韓国人が悪いと強弁する者もいます。これらの者が憎悪を募らせたり、あるいは情報が再拡散されて別の者が憎悪にまみれていくうち、また新たなヘイトクライムを引き起こす可能性は十分にあります。
無論、その場合でもこのデマニュースが犯罪を引き起こしたと確定することはほぼ不可能なのですが、それは言うなれば犯人が「自分は確かに街中で人ごみに機関銃を乱射したが、他にも乱射した者がいたから自分のせいで誰かが死傷したわけではない。文句は他の奴に言え」と主張するようなものです。
このようなデマは誰かの人生や実生活に対し、多大な被害を及ぼす可能性があるものです。ゆえに差別について最低限の知識を持つ人は、このような悪質なデマに対して怒るのです。

では、このデマ流しの犯人はレイシストなのか。

>男性自身は、韓国について「好きも嫌いもない」。韓国に行ったこともなければ、韓国人と喋ったこともない。ハングルだって読めない。

とのことですが、実際には明らかなレイシストと言っていいでしょう。
まずヘイトスピーチの重大性を理解していないような発言からして眉唾ものです。この犯人はSNS上のヘイト情報について分析済みで、「ヘイトを煽る」記事が拡散されると認識していて、高田誠を何らかの方法で知っていて、しかも氏を拡散に用いるターゲットに定め、そのための策略まで練って実行に移し、実際に成功しています。そこまで周到に下調べをしてデマの拡散を狙うような人物が、ヘイトスピーチの重大性に関する基礎知識だけは偶然にも全く得ることはなかったと考える方が無理があります
また、天文学的なまでの低確率ではありますが、万が一にもヘイトスピーチが犯罪を引き起こすことを知らなかったとしても、芸能人デマの法的リスクに触れていたり、実在の人名や企業名を用いるリスクについて認識している以上、デマが他人に対して被害を与える認識があったことは確実です。したがって、最低でもデマの垂れ流しによって直接誰かが傷つく可能性があることは、犯人も間違いなく承知していたはずです。

他人を死傷させれば、いくらかの金が、それも大きな額ではなくごく少量の小遣い程度の金額が手に入るとしましょう。たとえ法的リスクが低いとしても、あなたはそれで他人を死傷させようと考えるでしょうか。私には無理です。相手が「好きも嫌いもない」ような者だろうと、死傷させることはできません。
それを、この犯人は平然とやってのけたのです。「韓国人ならば死傷してもいい。ごく少量のお小遣いを得るため、彼らを死傷させることになっても全く構わない」と考えていなければ、このようなことは不可能です。これは当然、字面通りの意味で「好きも嫌いもない」相手に取れるような態度ではありません。
まして、この犯人は一度はてなブログでデマニュースサイトを開設しようとして、公開停止の措置を受けたのだといいます。自分の行いがいかなるものかをここで認識し、踏みとどまることもできたはずですが、あえて二度目の行動に出ているのです。韓国人なら死傷させてもいいと確信していて、一線を踏み越えるのに全く抵抗がないらしいことがうかがえます。
この犯人が自らのレイシズムを実際に自覚できていないのか、それとも自覚しつつも当たり障りのない応答をしているのかは、私には分かりません。しかし、いずれにせよその背景にはぞっとするほど凶悪な「透明のレイシズム」とでも呼ぶべきものが存在していることは確かだと、私は見ています。

そしてこれはまた、現実的で多大な恐怖でもあります。
大災害や内乱で法が機能不全に陥った時、「○○人を襲う」ことに何らかのごく小さな利益(金銭的利益かもしれないし、名誉や称賛など無形の利益かもしれない)があるとしたら、この犯人のような人間はどのような行動に出るでしょうか。
あるいは、ナチス政権下のように法がレイシストの味方となった時、「○○人を通告する」ことにごく小さな利益があるとしたら、この犯人のような人間はどうするでしょうか。
「相手が○○人ならば、自分が法的リスクを負わない限りにおいて、ごく小さな利益のためにでも死傷させて構わない」と考える者がいるというのは、そしてそれを大した罪悪感もなく平然と実行に移せてしまう者がいるというのは、すなわちそういうことなのです。

2017-01-29 の記事 - 2017-01-29
天皇退位に関して。BBCを聞いていたところ、「現政権が一代限りの適用を望んでいるのは、永続的な見直しをするとなれば女性を認める改正などの気運が出ることも避けられず、それを回避したいため」といった分析がなされていました。
私は天皇制周りの件に関して全く興味を持っていませんが、本件においては人権上あまりにも問題があること、また社会制度や差別意識に与える影響が大きいことから、触れておくことにします。

1.天皇制の是非
天皇制自体を廃止すべきと考えています。理由は以下の通り。

・本来、天皇は単なる象徴としてしか位置づけられていないが、保守派とやらが権威の衣服を無理やり大量に着せたことにより、天皇に多大な権威づけがなされてしまった。もし今後、政治的権力の獲得を画策する者が天皇となり、天皇の権威を利用したい保守派とやらと手を組んだなら、もはや歯止めが利かなくなる可能性が高い。
なお、言動や退位の念に見られるように、現天皇自体はおそらく権威を得たいなどとは考えておらず、これは天皇の意思とは関係ないところでなされている。
・80歳を超えるおじいさんを、天皇が大事などとほざく保守派とやらが未だこき使おうとしていて、おまけに退位の意思に対してまで文句を垂れる始末。老齢までこき使われ、辞めると言っても横やりを入れられるのであれば、人権上多大な問題がある。

私自身は現天皇に対して特に負の感情はありませんし、天皇制も特に必要と考えてこそいないにしても、政治上・人権上の問題を起こす危険がない限りは黙認して構いませんが、保守派とやらの手によってなされている上2つの件はこの両方の問題を引き起こすものですから、こうなると天皇制に反対の意思を表明せざるを得ません
以上、文句がある人は保守派とやらにどうぞ。

2.天皇に対する言葉遣いの是非
日本のマスコミでよく見かける「○○さまが○○されました」というあれです。
私はこれを廃止し、一般的なニュースで見られる通常の言葉遣いにすべきと考えています(芸能ニュースでもあるまいし、あれ自体が必要かというのは別の問題なので置くとして)。

人類の生活を大きく進歩させたり、人命を救うために多大な貢献をしたりと、世の中には素晴らしい成果を残した人が存在します。
ところが、いくら多大な成果を上げ、何千何万の命を救い、世界中の人々の尊敬されようとも、彼らが「○○さまが○○の研究成果を発表されました」などと報じられることはありません。その一方、皇族一家に関してのみは、功績など上げようもない赤ん坊すら「○○さま」と呼ばれ、大げさな敬語が使われるのです。
これは理不尽かつ無意味であり、全く道理に合いません。皇族に対して権威づけをする道具としかなっておらず、その権威が天皇の政治的利用という形で結実すれば、誰にとっても最悪の結末にしかなりません。よって、通常の言葉遣いによる報道とするのが妥当です。
なお私は、現天皇は「人として」まともな人間であるとは考えていますが、「天皇だから」尊敬しようなどとは全く考えません。その人の人間性や功績ではなく、肩書や属性(出自、人種、民族、肌の色、性別など)を理由として尊敬すべきか貶めるべきか決めるなどという思想を、私は一切容認しません。

3.女系天皇の是非
当然、認めるべきです。

天皇の血筋がどうなろうが私には関係ありませんが、天皇制が堂々と女性排除をやっていることには国内の性差別を助長する効果しかありません。
「伝統」などと意味不明なことを並べ立てる輩もいますが、そんなものは知ったことではありません。しめ縄を飾るなり、豆をまくなり、伝統を重んじたいなら他者に迷惑をかけない方法でご自由にどうぞ。しかし、道のど真ん中に縄を張ったり、人ごみに対して豆を投げつけたり、手前勝手な伝統とやらによって人に迷惑をかけるのであれば、それを認めることはできません。
天皇は良くも悪くも日本の象徴であり、日本社会に与える影響が大きいものです。この象徴的制度が性差別を公然と行い、社会に対して性差別の見本を示している状況を容認することなど絶対にできないのは言うまでもありません。

4.一代限りの規定の是非
言うまでもなく、一代限りではなく永続的な改正とすべきです。

結論ありきで有識者会議とやらを用いる安倍氏のやり方は第一次の時から全く変わっていませんが、現行規定を変更されたくないという欲望に基づく、自称保守や自称有識者会議のつまらない有識者ごっこに付き合ってやる必要などありません。
一代限りの適用とすることは、すなわち現行の非人道的かつ差別的な規定は今後とも温存し、今回の件はあくまで例外であると宣言することを意味します。そのようなものでお茶を濁させるべきではありません。永続的な改正とし、かつ現行の理不尽・非合理・人権無視・差別的な部分に大幅に切り込むべきです。
なお、現天皇の退位と他の制度改正については別物とする意見もありますが、私はとりあえず人道を優先して現天皇の退位を先行することには反対しないものの、今回の退位問題は現行制度の非人道・非人権・差別性が表面化したうちの一つであって、これらは明らかに連続した問題と考えています。

2017-01-21 の記事 - 2017-01-21
原作漫画版の「この世界の片隅に」は読了していましたが、このほど映画版を鑑賞する機会があったため、それについていくつか書いておきます。必要もなく詳細に踏み込まないように注意してはいますが、それでも内容に触れないわけにはいかないため、未読・未鑑賞の方はご注意ください。

映画自体は娯楽作品としてはよくできています。おおむね原作に忠実な映画化であり、素材(原作)が良質なため映画の質も高く、良作と言っていい作品です。ただし、私はこの映画について高い評価をすることはできません。
例えば、良質なバンズとレタス、トマトを使用し、肉を一切使用しないものが「ハンバーガー」と称して提供された場合、ハンバーガーが何かを知らない人なら十分に満足して食べることができるでしょう。ただし、ハンバーガーが何かを知っている人ならば、肉がないことに大きな不満を抱くのは避けられません。この映画はまさにそれであり、良質な野菜サンドイッチとして味わうことはできる一方で、原作からごっそり肉を抜き去ってしまった存在でもあるのです。

大きな変更点の一つに、遊郭関連のエピソードがごっそり削られていることがあります。ここは監督も残念と考えているそうですが、尺の都合で削ったとのこと。
漫画版では「代用品」などのエピソードがあるために、その後の水原とのやり取り、周作との関係も生きたものとなりますが、その辺がごっそり抜け落ちている映画では掘り込みが足りなくなっている印象は否めません。一言で言えば、各人の行動がやや駆け足的で突飛なものとなっています。
すずは確かに強い自己主張をするタイプではないながら、原作では細かな心情描写や遊郭関連のエピソードから個のある人間として描かれていますが、映画では原作と比較して意思が見えにくくなっています。周作もまた、原作ではこうしたエピソードによって人間らしさ、すずにとっての一種のわだかまりが描かれている一方で、映画ではあまり個性を見つけることのできない存在となっています。

ただ、削減に関してはまだ尺の都合と考えれば仕方がありません。長大で密度の高い原作を映画にしようとすれば、どこかしら削らないわけにはいかず、どこを削っても疑問の声が出るのは避けられません。一部が削られたことによって違和感が出てしまっている部分を、違和感を与えないように描写していない点については批判点かもしれませんが、これにしても原作を下手に改変するよりは良いとも言えますので、許容できる範囲ではあるでしょう。
しかし、終盤のすずの象徴的なセリフを改変したことには、「否」の評価を下すしかありません。この一点のみで、原作の根底に流れるものをぶち壊しにしてしまっています。

私が考えるに、この物語は大きく3つに分かれています。「戦前〜戦時中の日常」「負傷後の世界」「すずにとっての戦争が終わった後」です。
まず、戦争の影が徐々に忍び寄り、食糧事情は日に日に貧しくなりつつも、工夫を凝らして案外楽しく生活している部分。ここは漫画でも3巻中の約2巻を占めている部分で、中盤までの展開となります。家族が戦死したりはするものの、それにしても直接的な描写がなく、実は生きていてもおかしくないような認識となっているため、悲壮感はあまり描かれていません。
戦争も末期になると広島周辺も攻撃対象となり、たびたび空襲警報にさらされたり、建物疎開が行われたりもしますが、すずたち一家が暮らす建物は取り壊されることもなく、危機に対して深刻に悩むような描写もあまりなく、この時点でもまだすずは戦争状態の生活をそれなりに楽しく過ごしていきます。
しかし、終盤に入る時期になってようやく、すずは戦争というものに直面します。身近な人が死に、しかも自身も一生癒えない傷を負ってしまうのです。どこか戦争状態の生活を楽しんでいたような内容は、これを境に否が応にも戦争に直面したものへと変わり、原作ではゆがんだ絵なども用いられ、効果的に描写されています。
そうこうしているうちに広島に新型爆弾が落とされ、何か大変なことが起きたらしいという描写もなされ、実家がどうなったかもしばらく把握できない状況となります。
ここですずは、敵国の飛行機に対して「そんとな暴力に屈するもんかね」と口にします。すずにとっては自らは、敵国の理不尽な暴力によって攻撃された被害者なのです。憎むべき敵国によって攻撃を受け、親しい人を失った上に自分も大けがを負ったとなれば、このような認識に至るのは自然なことです。

それからまもなく終戦の日を迎え、すずたちは玉音放送により日本の降伏を知ります。
原作ではこの後、すずは自分の国が正義ではなかったことを悟り、自分たちが必ずしも被害者の立場ではなく、実は加害者でもあったことを理解します。今まで信じてきた価値観が完全に突き崩されてしまったわけです。原作のこれまでの様々な描写は、ここでの逆転のために積み上げられてきたと言っても過言ではないでしょう。
実際、この作品では常にすずの視点で物語が描かれており、ここまでに攻撃を受ける被害者としての視点はいくらでも出てきた一方、日本が他国への加害行為に出るような描写はありません。アジア各国の人々や、敵国に対する差別憎悪的な表現すらもなされず(*)、すず本人も読み手も終戦の時まで加害行為を実感することはありません。今まで見てこなかったものの存在を、すずは敗戦の時になって悟ることになったわけです。ここが物語中の2つ目の区切りであり、すずにとっての「戦中」と「戦後」を分ける線であるものと、私は考えています。
ところが、映画ではこの描写が完全に改変され、別物となっています。原作のすずはおぼろげにでも自分たちの加害性を認識し、それに直面した上で嗚咽した一方で、映画版のすずはあくまで被害者であり、戦争にしっかり向き合うことは最後までできませんでした。
この一点により、原作と映画のベクトルは全く異なったものとなっています。

(*)現実には戦前から戦中に至るまでアジア諸外国への蔑視や差別の意識はありましたし(現在まで残っているのを見れば一目瞭然でしょう)、当時の婦人誌は「アメリカ人をぶち殺せ」などと記載したりしています。当然、戦時下の日本では米国ら他国に対する憎悪扇動的なスローガンなども用いられていたはずですが、すずは「まだ左手も両足も残っとるのに」となんとも大日本帝国らしいことを言って降伏に対して納得できない気持ちをあらわにするものの、憎悪扇動的な文言は作中に登場しません。
つまり、本土においても加害性を持った要素はいくつも存在したはずですが、こうした情報が出れば読み手は加害性を嫌でも認識することになりますので、すずは作中において、加害的な要素からあえて隔離されていたわけです。

監督は以下の記事において、この描写の改変をした理由を語っていますが、ある意味で非常に腑に落ちるものではありました。

11/12(土)公開『この世界の片隅に』(原作:こうの史代 監督:片渕須直)

>それまでのすずさん自身が、朝鮮の方に暴力を振るっている場面があったか?というと無いんですよ。そういうところを彼女は目撃もしていない。なのに、すずさんが突然そんなことを言っても、拳を振り上げて戦争反対と言っている姿勢とあまり変わらなくなっちゃうような気がして。

なるほど、「拳を振り上げて戦争反対と言っている姿勢とあまり変わらなくなっちゃう」、それが改変の動機ですか。映画のすずのルーツがなんとなく分かったような気がします。
現状の日本では、諸外国の人々を差別し中傷するような自称言論が平然とまかり通っているばかりか、大日本帝国は諸外国に対する加害側であったにもかかわらず、被害者ぶろうとする言説すら横行しています。南京問題、慰安婦問題なども含め、その実例はいくらでも挙げることができます。
映画で描かれたすずはまさに、この日本の価値観が投影されたキャラクターなのです。終戦当時の日本人がどれほど自分たちの加害性を認識していたのかは、当時を生きていない私には分かりません。ただ、少なくとも現状の日本における意識は加害性を軽視する側に立っており、そういう意味では原作のすずこそ異端的な存在であり、映画のすずが標準的な存在であるともいえるのです。
すずは確かに、直接他国の人々に加害行為を働いたわけではありません。先に述べた通り、作中でのすずは加害行為的なあらゆるものから完全に隔離されています。だからこそ、すずの過酷な体験は非情な理不尽さ、強烈な被害者意識として結実し、読み手にも強烈な印象を与えるのであり、その強烈な被害者意識があるからこそ、終戦の場面において自分も加害者の立場にあったという大逆転、終戦と同時に自分の中での戦争もまた崩れ落ちるシーンが生きてくるのです。もしすずが他国の人々に直接的に加害行為を働いていたならば、敵国に被害者意識を抱いたとしても身勝手なものとしかみなされないでしょうし、価値観の崩壊も当然の結末としかなり得ません。
自らに直接加害の体験がないからこそ、読み手に強烈な印象を残す価値観の崩壊」を原作では余すことなく描き切り、自国から正義が飛び去る認識や、自らの加害を悟ったことにより、実際の戦争と同時にすずの中での「戦争」にも決着をつけました。それを、映画では「直接加害の体験がない」ことを理由に排除し、終戦はただの終戦というイベント以上の結果を描くものとはなりませんでした。
映画は全体的に原作に忠実に描かれていますが、ここはあえて原作が大きく改変された数少ない部分の一つです。となれば、監督としてもこだわりはあったのでしょうし、またここに賛否が集中するのもまた当然といえるでしょう。そして私は、すずの中での戦争を描き切った原作を強く支持します

と、ここまで書き終えてから読んだインタビューがこちら。どうやら本当に、あのシーンにおける映画のすずは「日本の価値観が投影されたキャラクター」で間違いなかったようです。

『この世界の片隅に』片渕須直監督インタビュー前編「この空間を想像力で埋めてはいけないと思った」

>庶民の側には、普通に国が戦争をやってるからくっついていっただけ、みたいな感じがある。庶民は「アメリカのほうが科学力や物量に優れていて、単純にそれで負けた」と思っていて、実は「正義」とかっていう言葉は入ってきようがない。まだ、きちんとした認識が生まれていないんです。なので、すずさんが生活者視点でそういった意識に近いことを気づくとしたら、どういった言葉になるのか? と考えて、セリフを変えています。

さすがにあり得ません。これには唖然としました。
敵国の飛行機に「暴力に屈するもんかね」と言ったり、降伏に対して怒るシーンがあるように、すず自身は一種の信念を持った人物です。すずはある意味で自国の正当性のようなものを信じていて(たとえそれが苦境の自分を支えるためのものであれ)、日本が加害者であるとは認識せずに(すず視点の作品中において、加害の要素は実際にほぼ描かれずに)戦中を生き抜き、負傷して親しい人も失い、「不当な暴力の被害者」となったのです。この信念が玉音放送のその瞬間まで続いたことは、「左手と足」の発言を見ての通りです。
それなのに国はあっさり降伏し、しかも実は日本が加害者であることを認識したならば、「言っていることが違うじゃないか、やっていることが違うじゃないか」と嘆きたくなるのも無理のないことでしょう。この価値観の根底からの崩壊を描いたシーンがまさに、「正義が飛び去っていく」〜「暴力」のくだりです。
そもそも「庶民は物量と科学力の差で負けたと考えていた」からと「あのシーンから正義の語を排除する」という発想自体があんまりですが、加えて作中のすずは上記のような行動に見られるように、すずなりの思考を持ち、また厳しい体験もしています(これは読み手も追体験しています)。それを、すずというキャラクターは原作のままに、終戦の時の総括だけを「物量と科学力で負けた」と考える庶民の声とやらにすり替えてしまったのです。映画のあれはもはや、すずが発した言葉ではなくなっていたのです。
どうやら、私が映画に抱いた印象は間違っていなかったようです。すなわち、やはり映画のすずは物語の最後まで戦争と向き合うことができなかったのです。なぜならば、自分が抱いてきた信念の崩壊に対し、自分の言葉で総括する機会を、映画のすずは持つことができなかったのですから。
もしこの映画の監督が庶民の声で総括をさせたかったのであれば、「この世界の片隅に」のすずをその道具とするのではなく、当時の庶民を平均化したような行動パターンと思考、性格を持ったキャラクターを作り、それを主人公とした映画を撮るべきでした。もしそういうキャラクターが主人公ならば、あの終戦のシーンは強い意味を持ってくるでしょうし、逆に原作のすずのような言葉は違和感のあるものとなるでしょう。

原作のすずが終戦と同時に自分の中の戦争を終わらせ、戦後の世界を生きていくのに対し、映画のすずはおそらく、以後もおぼろげな戦中を生きていくのでしょう。
素材が優れているだけに、映画は消化不良気味で惜しい作品です。削りは仕方ないとして、改変がなければ十分素晴らしい作品になっていたはずです。
映画だけを鑑賞した皆様におかれましては、ぜひ原作を読むことをおすすめします。