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雑記帳(過去ログ)
2018-09-22 の記事 - 2018-09-22
杉田水脈氏への批判は「見当外れ」 新潮45が掲載へ

話題の"そんなにおかしいか『杉田水脈』論文" 寄稿者のLGBT当事者が論文を書いた理由

「ごめんなさい」も言えないのか、この連中は

あきれ果てました。LGBTに対する無知と偏見に基づくばかりか、「生産性」などとして全方位に差別の種をまき散らした杉田氏が批判を浴びるのは当然ですし、それすらなされなくなったら社会は終わりです。思想的には在特会とほぼ変わらない自民党ですら、当然ながら同じ思想の杉田氏を処分までするわけにはいかないにしても、注意はしてお茶を濁しました。
それを、この雑誌は未だにヘイトの上塗りですか。この連中はヘイトを塗り重ねているつもりでも、実際には自らに対して恥を塗り重ねていると知った方がよろしいでしょう。

>主要メディアは戦時下さながらに杉田攻撃一色に染まり、そこには冷静さのかけらもなかった。あの記事をどう読むべきなのか。LGBT当事者の声も含め、真っ当な議論のきっかけとなる論考をお届けする。

レイシストの常套手段とはいえ、何を被害者ぶっているのか
まずLGBT差別と「生産性」論でマイノリティに襲い掛かったのは杉田氏及び新潮45の側です。差別とは人の魂を傷つけて殺すものですし、最悪の場合は実際に死者が出ることもあります。LGBTの自殺率が高いことに笑いながら言及した杉田氏はそのことを知っているはずですし、生産性で人の価値を図った相模原事件のようなヘイトクライムもすでに発生しています。
すなわち、杉田氏と新潮45はマイノリティの集団に向かって機関銃を乱射したも同然で、こんなもの各メディアから批判されない方がどうかしています。しかも、これらの批判は杉田氏や新潮45の「属性」ではなく「行為」を理由としたものであって、LGBTや「生産性」論によって他者の属性を攻撃した杉田氏・新潮45と好対照をなす、極めて正当な批判です。
「生きづらさ」も何も、それは確かに日本はマイノリティにとって問題のありすぎる社会でしょう。なにしろ、与党政治家と有名出版社がその発信力を武器にいきなり襲い掛かってくるほどなのですから。こんなものは政治が生きづらさをどうこうする以前も以前の問題で、単に「お前らはマイノリティを襲うな」の一言で済む話です。
新潮45とは一体どこまで無知なのか、あるいは恥知らずなのか。開いた口が塞がらないとはこのことです。

「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」。出版各社が「新潮45」批判RTの新潮社アカウントに援護射撃

新潮社内部にもまともな人がいるのか、新潮45に対して批判的ともみなせるツイートやリツイートを行い、他の出版社も援護している、という話。これを理由に新潮社内のまともな人々を称賛する声もあるようですが、私としてはそんなものは到底称賛になど値しないと考えます。
新潮45は何の罪もない人々を、LGBT差別及び「生産性」論によって思いきりぶん殴りました。それに対しては当然、当事者及び周囲の人々から「何をするんですか!」という声が上がるわけですが、それを受けて新潮45は再びマイノリティの人々をこれ見よがしにぶん殴りました。
こんな異常者に対して同じ組織の人間がやることが、新潮45の姿勢に批判的とも取れるツイートだとか、新潮を批判するツイートのリツイートですか。新潮45が拳を真っ赤にしてマイノリティをボコボコぶん殴っている最中に、遠くからポップコーンを投げているようなものではないですか
こんなものを会社の良識、自浄作用とみなすわけにはいきません。同じ組織内の狼藉に対し、せいぜいポップコーンを投げる程度の抵抗しかできないのであれば、そんな組織はすぐに差別連中に飲み込まれてしまうでしょう。新潮社の創業者・佐藤義亮氏の「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」の言葉を引くからには、さすがに殺されて来いとまでは言わないにしても、それを引くに恥じない覚悟は見せてもらわねばなりません。
新潮45がマイノリティを殴りつけている場面に割って入り、新潮45を全力でぶん殴り、人々に「うちの会社の者がご迷惑をおかけしました」と頭を下げてから新潮45を引きずって帰る。これくらいはできなければ、到底称賛に値する域には達しません。組織の論理だの何だのは、殴られている人々には関係ありません。

ただ、新潮だの講談社だのの醜態を見ても分かるのは、つくづくヘイトは日本において魔法の杖であるということ。
これをかざせばあら不思議、冴えない自称活動家の下に人と寄付金が集まり、字幕だらけの実にくだらない手抜き動画でも利益が出せるようになり、出版不況で悪戦苦闘していた書店では本が売れるようになり、出版社も一山当てることができ、政治家は固定的な支持層を確保できる。これが日本社会におけるヘイトスピーチの位置です。
無論、タダでそんな錬金術のようなことは起こりません。その代償として、まずマイノリティに対する差別が扇動され、マイノリティにとっては生存権すら脅かされるような社会となります。これで大金が生み出されているわけですから、その代償がどれほど大きなものとなるかは容易に想像できようというもの。しかし、どれほどマイノリティが地獄のような苦しみを味わおうとも、出版社などの「売る」方には何の打撃もないため、彼らには高い倫理観や想像力が求められるのです。
それでもなおヘイト商売をやめないでいれば、その次には自らの会社及び業界が築いてきた信頼が破壊されます。例えば私は本が好きですが、以前にとある書店でヘイト本コーナーが作られているのを見て以降、その書店チェーンでは一切何も購入していませんし、立ち入りも控えています。私は本が好きなのであって、魂を削られるために本屋に行くわけではないからです。たとえヘイト商売をやめたとしても、当面はそこで本を購入したいとは考えません。今回、これと同様に新潮の態度に激怒した人は多いのではないでしょうか。
結果、ヘイト書店やヘイト出版社から本を愛する人は立ち去り、代わりにその大半は特に本を愛してもいないレイシスト相手の商売となり、ヘイト本ブームが終わった時には焼け野原が広がるのみ。それから頑張っていい本を出したとしても、「あのヘイト出版社の本か」とみなされるだけです。
ヘイト商売とはすなわち、他人の生命や平穏な暮らしを生け贄とし、自社及び自分の業界を切り売りする行為であると認識し、この呪われた魔法の杖を手放すことができるかどうか。「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」の名言が何を戒めているのか、果たして彼らには理解できるでしょうか。

「新潮45」2018年10月号特別企画について

新潮社からのアナウンスが出ましたが、結局何が言いたいのか。何か書いているようで何も書いておらず、意味のある文章とはみなせません。
もし本件を本当に問題であると考えるなら、即刻それに見合うだけの極めて厳重かつ徹底的な処分を発表し、今後一切差別をしないことを会社として誓約し、態度で示すしかありません。良心に背く出版の代償は、断じて小さなものではありません。

新潮社の本を棚から撤去 和歌山の書店、新潮45に抗議

小規模の本屋さんのようですが、良い動きです。
言論は言論として認めるべきですが、差別は言論ではなくただの暴力です。書籍などを通して言論に携わろうとする者は、言論を悪用して使い捨てにし、被害者と言論の両方を同時に踏みにじる暴力にこそ敏感でなければなりません。
LGBTや○○人といった「属性」を理由として、そうした属性を持つ人々の尊厳を踏みにじり、魂を殺していい権利を持つ者などこの世にいません。差別を言論と位置付けることは、すなわち誰かが特定の属性の人々の尊厳を踏みにじり、生命や平穏な生活を脅かしても、それは自由であって別に構わないと主張しているのであり、それ自体が差別でしかないのです。
この店主の方は、おそらく真に本が好きな方なのでしょう。新潮社の創業者の言葉の意味を、書物の持つ力とその責任を、新潮社や講談社のヘイト本関係者、あるいは大手のヘイト書店の面々が寄ってたかっても到底理解できないようなことを、本を大切にしている小規模書店の店主は深く理解している、というのは極めて象徴的な図式ではあります。

2018-09-15 の記事 - 2018-09-15
ネットの「デマ」、名誉毀損で刑事告訴へ 翁長氏後継・玉城デニー氏

素晴らしいことです。
で、本土の立憲野党は?いつまで沖縄におんぶにだっこを続けるのですか?沖縄が貶められ、ターゲットにされ、それに抗おうとする人に対するデマが垂れ流されるのは、すべて本土の都合です。
本土の立憲野党が日ごろデマに厳しく対処しないから、沖縄でも悪質なデマが流されることになるのです。反撃がどれほど効果的かは、不当懲戒請求への反撃が示してくれている通りです。本土の立憲野党こそ、普段からデマに対して徹底的な法的措置で対抗しなければなりません。

台湾の従軍慰安婦像に蹴りを入れた藤井実彦とは何者なのか

海外に出向けば恥をさらす。日本の地位は貶める。二度と海外に立ち入るな、日本からも出ていけ、国賊が

日本のレイシスト連中がどこまで腐りきっているかをよく表している、徹底的にどうしようもない愚挙です。これにて台湾の心象は極限まで悪化し、慰安婦像の設置を妥当なものとみなしたことでしょう。かつての「The Fact」やスパムメール爆撃と同じことをまたしても繰り返したわけです。
この国賊と違い、像に対して何ら憎悪を持たない私としては設置が固定化しても全く構いませんが、像を通してその向こうにいる人間の尊厳を足蹴にしたこと、それによって日本の品位を極限まで棄損したことなどを決して許すことはできません。
ただ、これが恐ろしいのは、日本国内ではこの手の主張は全く珍しいものではなく(例えば作家の筒井氏は極めて下品な表現で像を貶めている)、それどころか生身の人間に対する攻撃すら平然となされていて、今回の件にしても日本国内での内輪受けを狙ったものであろうということ。今回は海外の目に触れ、国内と違ってまともな感覚であるがゆえに大問題になりましたが、これが海外の目に触れなかったり、国内で完結している場合には、レイシスト連中の拍手喝采で終わったことでしょう。
この国賊の行動は、単に日本国内に存在する願望を実際に形にしただけと言っても過言ではなく、この問題はそのまま日本の異常性を写す鏡となっているのです。

なお私は、慰安婦像は設置した方がよいという立場です。理由はこの国賊を見ての通り。日本が本当に過去と向き合うことができているのなら、レイシスト歴史修正主義政党が与党となり、歴史どころか少し前のことすら修正するレイシスト首相が大手を振るような異常事態にはなりませんし、地方政治でも東京の石原〜小池、大阪の維新といった恐ろしいことにはなりません。
今回の国賊及び国賊の同類が日本にはびこっている限り、こういったモニュメントの存在価値が増すことはあっても減ることはありませんし、こうした国賊の存在とその異常性を海外に知らしめる点でも大きな効果を上げています。単なる像でありながら、ここまで明瞭に深刻な社会問題の存在をあぶり出し、世界に問題提起ができるような像が他にあるでしょうか。
もし像が必要なくなる時が来るとすれば、それは日本人がこうした国賊及び国賊の同類と戦って勝利し、ヘイト政治家を政治の場から締め出し、自分たちの意思でレイシズムや歴史修正を否定し、歴史と向き合った時でしょう。

最新調査で判明、インターネットはこうして社会を「分断」する

安田浩一氏の記事を見たついでに読んだ記事ですが、何ですかこれは。
レイシストがタコツボの中に入ると極端な方向に走るのは確かで、それゆえに街角で「朝鮮人を皆殺しにしろ」だのと吐き散らしたり、女子中学生が「鶴橋大虐殺を起こしますよ」だのと背筋が凍るようなことを叫んだり、慰安婦像を足蹴にして国際問題になったりするわけですが、なぜここで「アンチ排外主義」までが極端化だの、果ては敵味方感情だの分断だのという奇妙な話が出てくるのか。
実はこの記事、1つ重要なピースが抜けています。怪談話などで、登場人物が無事では済まなかった場合の定番のツッコミとして「あなたは一体どうしてその話を知っているのか」というものがありますが、本件については「では、その両極の先鋭化を俯瞰しているらしいあなたは、一体どこに立って眺めているのか」と問うことができるでしょう。
というのは、いわゆる穏健派、中立や中庸を気取る意見こそが実際には極端であることは珍しくなく、この重要な点を抜きにして極端や分断を語ることはできないためです。

例えば、レイシストは街角で平然と「○○人を皆殺しにしろ」と主張しています。一方、反差別者は「そんなことは許されない」と主張しています。では、そのどちらの極でもない、すなわちここで言う「極端」には属さない「穏健」な立ち位置とはどこなのでしょうか。
単純に真ん中に立つとすれば、「○○人は半分殺せ」です。両方ともおかしいというのなら、つまり「○○人を皆殺しにするのはおかしいが、○○人を殺すのを許さないのもおかしい」ということです。無関心ならば「○○人が皆殺しにされようがされまいが、どちらでも構わない」。自分や近親者は殺されても構わないと主張することはないはずで、これはすなわち○○人の生命は無価値とみなしていることを意味します。では果たして「極端」でない人、「穏健」な人は一体どこに立つ気なのか。
実際のところ、この場合に極端でない意見、穏健な意見は反差別だけです。たとえ反差別に加わらない範囲でギリギリまで反差別側に寄り、最小値を用いて「○○人を○○人という理由で1人殺せ」と主張したとしても、これは十分に極端な意見です。「殺すな」が極端ではない唯一の解なのです。

むしろ日本社会は、いわゆる「穏健」、中間や中庸的な極端に走ることに対して最も無防備であり、それこそを一番に警戒すべきでしょう。差別や人権無視、不正のような明らかにおかしい主張や行為について、「正しい」「間違っている」「どちらともいえない」の中から「間違っている」を選べず、中庸を取ろうとする極端、と言えばイメージしやすいでしょうか。そしてそれは、理不尽な差別や人権無視による被害を受ける人々と、中庸に走ろうとして間違いを間違いとさえ言えない「穏健」派の間の地点で、社会が分断されることを意味します。
また、日本には中間を大人の対応とみなす珍妙な価値観があります。しかし、差別や人権無視のようなおかしい問題について、なんでもかんでも中立を気取ったり、両論併記をしようとすることを大人の対応とは言いません。それらをきっちり叱り、否定し、対処することか大人の対応です。
そして、この幽霊のようないわゆる穏健が、そのタコツボの中で意見を強化してしまうと時に恐ろしい結果を招きます。関東大震災時、差別デマに踊らされて動乱に加わった人の中には、いわゆる「普通の人」が大勢いました。当然、虐殺を防いだり被害者をかくまったりした人もまた存在し、勇気ある逸話も残されていますが、この状況でそうまでして虐殺に立ち向かった人々は「極端」であるわけです。
この記事のような角度から極端を語りたいのであれば、いわゆる穏健を極端の外の存在とするのではなく、それもまた極端の一形態であると位置づけることが最低限必要です。

2018-09-08 の記事 - 2018-09-08
安倍氏がDHCテレビの番組に出演したとのこと。
安倍氏はもともと筋金入りの差別主義者ではあるものの、その差別を麻生氏や在特会のように万人に対して大っぴらにはせず、ヘイトスピーチについて許されないなどともっともらしいことを口にはしつつ、知識がある人が見れば大仰天せざるを得ない差別的行動は取る、ということを繰り返してきました。
例えば保守速報シェア事件などは異常の上にも異常な行動でしたが、残念ながらスポンサーが降り始めるほど同サイトが一般に問題視されるようになったのは最近です。その他、The Facts第二弾に名を連ねるなどの異常行為には事欠きませんが、それらの意味が誰にでも分かるような適切な解説付きでメディアに取り上げられることはまずありません。その他、知識のある人には非常に悪質なレイシストとして有名であった杉田氏を事実上の当選保証で引き入れ、その時にも大仰天されたものでしたが、こちらは案の定大騒乱を引き起こしました。
そして今回、ヘイトデマの垂れ流しで有名で、沖縄及び辛氏個人を対象とした卑劣なヘイトデマ番組がBPOにも厳しく非難された、あのDHCの番組に安倍氏が出演したというのですから、いよいよ差別の深刻さ、支持層である差別主義者に向けた「内輪受け」の優先は極まってきたと見るべきでしょう。
メディアもいい加減、自民党がもはや単なる差別集団であることを明確に報じるべきです。保守速報もそうですが、ヘイトデマ番組の件についてDHCに正当化の余地は全くありません。「保毛尾田」問題の重大性さえも適切に評価することができないBPOですらそれは認めざるを得ず、ヘイトデマに対する厳しい指摘が大量になされることになったのです。
先の杉田発言では、まともな論調を取ろうとすると絶対に正当化のしようがないものであるためか、明確に否定する新聞社も複数ありました(一番しっかり否定していたのが子ども用コーナーというのが泣けてきますが)。同様に、沖縄ヘイトデマ及び在日の個人へのヘイトデマを垂れ流したヘイト企業・DHCの番組に出演する行為、完全なヘイトデマサイトである保守速報をシェアする行為、杉田氏がかねてから繰り返してきた差別と氏を引き入れた責任などすら、明確に否定的な立ち位置から解説し批判することができないのであれば、メディアに存在意義はありません

ツイッターCEO、アカウント停止判断に介入か

いかにもありそうな話です。
無論、私はこれが事実かどうかを知る立場にはありません。しかし、これが事実であるか否かなどTwitter外部の社会にとっては大した意味を持ちません。社会にとって重要なのは、Twitter社は徹底的に差別を放置し保護しているという一点だけです。

今回の台風や地震などの災害を受け、またしても、またしてもTwitterで災害便乗ヘイトが垂れ流されています。もうこれで何度目か数えるのもバカバカしいですが、災害のたびに問題になり、災害のたびに対策の必要性が明らかになっていて、一度たりともまともな対策を取らないでいるがために恒例行事となっているのです。
少なくとも、災害時ヘイトを垂れ流したアカウントは一発で利用権剥奪処分とし、平時には影響力のある差別アカウントだけでも全部同措置としておけば、Twitter上の差別は大きく減じられ、しかもそれほど人手もかかりません。災害のたびに危険極まりない状況となっていながら、その程度のことも絶対にしないのはなぜか。あえて差別を放置しているとしか考えようがありません。
おまけに日本法人代表はヘイトデマサイトのnetgeekの読者。国のリーダーが保守速報なら、大手SNSの日本法人のリーダーはnetgeekですか。結局そういうレベルの人々なのでしょうが、周囲にとっては大迷惑です。

Twitterは「ゴミがゴミを呼ぶ」と形容するにふさわしい存在です。何らかの公開コミュニティを作るにあたり、ゴミをまき散らす人間が一定数いるのは仕方ないにせよ、それを掃除したり注意したりすることもなく「ゴミを投棄するのも彼らの自由だ」とバカなことを言い出した結果、ゴミの山ばかりが膨れ上がり、まともな人々は次々と姿を消し、残ったのはゴミとゴミを捨てる輩だけ。
それだけならまだしも、そのゴミは猛烈な悪臭を周囲にまき散らし、廃棄物内の有毒物や病原体が大気や水源を汚染し始めました。すなわち、Twitterと直接関係ない人々までも生命や安全を脅かされる事態となっています。Twitter発のヘイトデマによっていつヘイトクライムが引き起こされても不思議ではない状況ですが、それによって被害を受けるのはTwitterを全く使っていない人かもしれないのです。

現状、自民党・安倍やトランプといった猛烈な退行現象はあるものの、全体として世界がまともな方向に進んでいくことは可能なはずです。そして、公正で差別が許容されず、マジョリティもマイノリティも皆が安全に暮らせる世界にTwitterの居場所はありません。差別もろとも墓場に叩き込むのが一番でしょう。

2018-09-01 の記事 - 2018-09-01
ブームを起こし7か月で消えた「希望の党」とは一体なんだったのか

「おふざけもほどほどにしろ」の一言。自民党に負けず劣らず腐り切った議員の巣窟では、先の衆院選で大失敗したのも当然の結果というものです。

>昨年9月、希望の党の結党会見が華々しく行われ、当時の民進党の前原代表が希望の党への合流を決めた時、民進党系議員は刻々と変化する状況に戸惑いつつも「ある意味でワクワクしていた」と今の国民民主党幹部は振り返る。

それは楽しそうでよろしいことで。娯楽施設から娯楽体験の提供を受けて対価を支払うように、夢を見させてもらって議席や支持率を支払ったわけですから、とても釣り合いの取れた取引ではないでしょうか。最後に良い夢を見たのですから、もう戻ってこなくて結構。

では旧民進党を応援していた市民はというと、少なくとも反差別や立憲主義・民主主義の観点から応援していた人の中では、この騒動に怒ったり焦ったりあきれたりする人はいても、ワクワクしていた人など1人として見ませんでした。所属議員連中の「ワクワク」などという異常なまでの感覚の乖離を考えれば、民進党を事実上引き継いでおきながら、ないないづくしの立憲民主党にすら劣る大惨敗となったのも当然というものでしょう。

小池氏といえば、在特会関係団体の集会で講演をするほどの筋金入りのレイシストです。おまけに石原氏ですらやっていた関東大震災朝鮮人虐殺への追悼文送付をやめ、今年もまた送られないことになりました。
差別主義者の親玉である自民党・安倍政権と、在特系集会の講演に立つほどのレイシストである小池氏、この両者によって国会が牛耳られようものなら、この国はマイノリティが到底平穏に暮らせる状態ではなくなります
前原氏は「みんながみんなのために」を標語としていましたが、何のことはない、「みんな」からマイノリティは除外されていたのです。本来、政治とは立場の弱い人々をすくい上げることに意義があるはずで、そのための政治による再分配や福祉なのですが、前原氏の「みんな」には弱い人など最初から含まれていなかったのです。
これは旧民進党のうち小池ヘイト党から離反しなかった他の議員も同じで、このままでは差別政党が議席のほとんどを占有し、被差別者ら立場の弱い人々は地獄の釜に投げ込まれる、などと焦るどころか、「ワクワク」までする始末。議員としてという以前に、人として何をなすべきかも分からなかったようです。

とはいうものの、人間誰しも間違いはあるもの。在特系集会の講演登壇者についていくことが「人間には間違いはある」で済まされるかというと相当厳しいのですが、この失敗で性根を入れ替えて人として恥じない行動をするというなら、それはそれで悪いことではないでしょう。
ところが、

>選挙を終え、53人となった希望の党の議員はこぞって失敗の理由づけを始めた。
>小池知事の「排除」発言、結党までの準備不足、前原元民進党代表の判断ミス…などなど。


>「こんなことなら排除されて立憲民主党にいったほうがよかった」

>「なぜこんなことになってしまったのか」「自分は巻き込まれてしまった」

これですから。
自分たちが「主体的に」立場の弱い人々を地獄に投げ込もうとしていた自覚など皆無。あの時点でも皆無であるのみならず、冷静に分析が可能となった今に至ってすらほとんど皆無でしょう。当然、立憲民主党の方が善戦した理由として、立場の弱い人々が地獄に投げ込まれる寸前であったのを、市民と共産党ら野党と民進内のまともな人がとにかく団結して何とか止めに入ったから、といったようなことを全く踏まえていないのは明白です。ただ単に、隣の船は沈まなかったからそちらに乗りたかった、というだけ。
差別政党で国会を埋め尽くそうとするたくらみなど、失敗してもらわなければ困ります。それ以外の「理由づけ」を試みる連中は、最初から立場の弱い人々のことなど全く考えてもいないのです。人間としての道理を少しでもわきまえているなら、今からでも地獄に叩き落そうとした被差別者らに謝罪しに行ってはいかがか。
こんな連中がどこに行こうが、国民民主党なるものを立ち上げようが、そんなものがまともな存在となるわけがありません。

国民民主党・玉木代表「高齢者就労のためには最低賃金以下でも働けるような労働法制の特例も必要」

その行き着いた先が、玉木氏による「コドモノミクス」や高齢者最低賃金適用除外といった異様な政策です。どこまで物が分かっていなければこういうことが言えるのでしょうか。
高齢者の最低賃金以下の労働は、高齢者に対する搾取であるのみならず、高齢者以外の人々の賃金低下や雇用縮小をもたらし、誰にとっても災厄にしかなりません。最低賃金水準の低さは散々指摘されており、底上げを行うことが必要とされているのに、なぜ未だにこういうことを平然と言えるのか。
しかも恐ろしいことに、「逆転現象を防ぐため、生活保護費との整合性も考えていきたい」とまで言及している始末。具体的に何をしたいのかは不明ですが、最低賃金以下の労働を作って人々を追い込んでおいて、そこからはじき出された人のセーフティネットまで奪い取るとすれば、全方位的に完璧な困窮拡大策です。
また、これと「コドモノミクス」を同時に主張するのも極めて不可解です。個人的には金銭的負担を緩和する直接給付自体を否定はしませんが、低すぎて結婚だの家庭だのどころではない賃金、職場の理解不足や保育所不足どころか大学入試の時点でさえ女性を切り捨てるほどの差別的分業思想かつブラック社会、ベビーカーを引いたり子どもを連れた女性に対する嫌がらせ(男性の場合はあまり嫌がらせを受けない)、重すぎる学費負担、増していく税負担、削られていく福祉に対する不安(本当に財源がないならまだしも、実際には無意味なバラマキをし、珍妙な兵器を買いまくり、お友達には国の財産を提供している)、その他これでもかというほど問題がある状況です。
ここに高齢者最低賃金適用除外が入れば、賃金や労働環境、雇用状況はさらに悪化するでしょう。その上で「子ども3人で1000万円」などと工業製品の生産報奨金のような政策を打ち出したとして、それを現実的な解だとみなす人がどこにいるのか。
もともと金銭的にかなり余裕がある人が、ついでとばかりに1000万円を獲得していくことはあり得るでしょう。一方、現状の危機に加えてさらに高齢者最賃除外制度の猛追撃を浴びせておいて、その上で1000万円で釣るという手法で無理やり出生率を上げようとしても、草花にまず強力除草剤を浴びせてからジャブジャブ水を撒くようなものですし、仮に思惑通りにいくケースがいくらかあったとしても、格差の世代連鎖がさらに起きやすくなるのは見えています。

結局、政治家が最も見なければならないものを完全に無視しているから、小池ヘイト党騒動から現状の国民民主党の有様まで、ことごとく何か異様にズレたことが起きるわけです。被差別者ら立場の弱い人々を散々踏みつけて好き放題に夢を見たのですから、もうこれで十分でしょう。

2018-08-25 の記事 - 2018-08-25
東京五輪メダル「銀」まだ足りない、小中学校でも回収へ

もう末期状態。資金はあるのに市民に金属を拠出させ、「ボランティア」とやらを募り、市民に何らかの負担をさせたり金を渡さないためならいくらでも金を使う。狂気というものを見せつけられている気分です。
こと安倍内閣になってから言葉が次々と破壊されていますが、言葉というものの本質に立ち返るなら、東京オリンピックに関するボランティアはすべて「タダ働き」または「無賃労働」と言い換えるべきでしょう。
例えば災害が発生した場合、被災者が自力で問題を何とかしようとしても人手が足りませんし、被災者の多くは人を動かすほどの潤沢な資金を持っているわけでもありません。したがって、報酬によらずにそれを手助けするのは「ボランティア」と呼んで間違いないでしょう。
しかし、オリンピックの場合は実にバカげたことに資金をジャブジャブ使い、恐ろしい規模の無駄遣い五輪になっているのです。労働力に金を出すのは容易なのにタダ働きさせようとしているのですから、これは「無賃労働」と正しく表記すべきです。
金の無駄遣いであるばかりか、労働力をタダとみなすなどの異常思想や狂った精神性を浸透させ、有形のみならず無形の部分でも甚大な被害をもたらすオリンピックなど、当然ながら直ちに返上すべきです。

「申し訳ないがまずは共産党は除いて」国民民主・玉木氏

私は、在特系講演会に出るほどの稀代のレイシスト・小池氏に党を売り渡し、それにより二大ヘイ党制を作ってマイノリティの平穏な生活を破壊しようとした小池ヘイト党騒動を絶対に許すことができません。しかも、その観点から反省する様子もない。泥水を飲もうが何しようが、国民民主党には入れたくないと言わざるを得ません。
支持率から言っても共産党の方が上。一方、小池ヘイト党騒動の成れの果てで、あの前原氏が所属し、肝心なところで裏切るなど、共闘支持者忌避剤としての効果が抜群の国民民主党。共闘の効率最大化のために、国民民主党を除いて戦略を立てた上、国民民主党には擁立撤回を判断いただけば結構です。

アジア大会:「買春、浮ついた気持ちで」バスケ4選手謝罪

色々な意味で「気持ち悪い」の一言。

あえてこのような言い方をしますが、彼らは単なる大会出場選手です。たかだかそのような存在に勝手に日の丸を背負うなどと言われても困りますし、日の丸とか何とか妙な自意識が薄気味悪い。何が悪いのか理解しているのでしょうか。
確かに本件は海外でも報じられており、日本の恥です。そういう意味では「日の丸」を汚していると考えても間違いとはいえないかもしれません。しかし、これは日本文化お得意の「叱られるからやめなさい」論法につながるもので、全く同意することはできません。
「叱られるからやめなさい」論法において、なぜそれをしてはいけないのか。叱られるからです。では、それをしてしまった結果としてどのような不利益が起こるのか。叱られます。このような循環論法じみた無意味なものに何の意味があるというのでしょうか。叱られるからダメならば、見つからないようにすればやっていいのでしょうか。「よくないことだからやめなさい」が正しいのであって、なぜよくないのか正しく理解されなければならないのです。そして当然、たとえ誰かに叱られることであろうとも、それが公正性の観点からして正当または不当性のない行為であるならば(例:公益通報)、やめる必要はありません。
本件も同様で、「日の丸を背負っているから」やってはいけないのではありません。「安易な買春は」やってはならないのです。もし「日の丸を背負っているのに」やってしまったというなら、それはつまり日の丸を背負ってさえいなければ、あるいはバレなければやっていいことを意味します。「日本の恥だからダメとされているのに、それをしたから日本の恥になった」のではなく、「よくないことをしたから結果的に日本の恥」であるだけのこと。
(なお、私はセックスワーカー自体が差別されたり排除されることはあってはならないと考えますので、あらゆる売買春をすべて問題とはみなしません。十分な選択肢の中から自由意志でセックスワークを選択し、いつでも他の選択肢を選択できる中でそれを継続し、人権や健康が保証される限りにおいて、それは本人の自由だろうと考えます。
今回の場合、日本代表選手が日本よりもまだ経済力が高くない途上国で、セックスワーカーの権利などといった点に無頓着な買春を行い、経済格差に基づく一種の性的搾取を平然と行った点が大いに問題であると言わざるを得ず、このような人権的・搾取的問題をはらんだ買春について、ここでは便宜上「安易な買春」と表記します)

彼ら問題となった選手に必要なのは、日の丸がどうたらではありません。日の丸を汚しているというなら、彼らより安倍・麻生・杉田水脈・山口敬之といった連中や在特会などのレイシストの方がよっぽど悪質で被害も上です。先日の人種差別撤廃委員会での醜態などは、まさに日本の恥と呼ぶにふさわしいものですが、どういうわけか選手ほどに叩かれてはおらず、日の丸がどうのこうのという理由付けは極めて不可解で意味不明なものであることが分かります。そういうよく分からない理由で問題の選手が反省し、また彼らを処分したり責めたりするのは、もっと異常で悪質な連中をどうにかしてからでよろしい
それよりも彼らに必要なのは、自分が何をしたのか、なぜそれがいけないのかを十分に理解させることです。間違っても「背負っていた日の丸」を汚したから反省せねばならないのではありません。そして、どうやら彼ら以外の少なからぬ日本人も、なぜそれがいけないのかを学ばなければならない状況にあるようです。

2018-08-18 の記事 - 2018-08-18
自称プラントハンターによる「星の王子さま バオバブの苗木」、大炎上により販売中止に

この件。プラントハンターを名乗る炎上芸人による「法には触れない」を悪用したモラルハザードが可視化された例でしたが、結局取り扱いは取りやめとなったようです。

通常、法律は社会の何もかもを取り締まるようにはできていません。それをやってしまうと自由が損なわれますし、社会にとって良いことはありません。ただ、「法にはいちいち書いていないが、すべきでないこと」は当然ながら存在します。
例えば、とあるファンドが法の抜け道をついて株を買い進め、グリーンメールを仕掛ける。ブログや動画でヘイトデマを垂れ流し、それを商売とする。ある出版社が著者に白人を起用して「ハク」をつけた上で、ヘイト本を売りさばく。法的に問題ないと称して男性の集団が女性専用車両に乗り込む嫌がらせをし、時には注意してきた女性を晒し上げ、それを動画にして視聴数を稼ぐ。著作権が切れた有名な物語を捻じ曲げて用い、炎上商法によって注目を集め、ただの苗木に物語代を乗せて高く売る。いずれも「(直ちには)法には触れない」案件です。
このようなモラルハザードが平然と横行すれば、それを法律や条例、あるいは自治体や企業・共同体の規則などで規制する必要が出てくる場合もあります。本来であれば良識で避けることができるのに、一部の不届き者がふざけたことをやるがためにシステム的に縛らざるを得なくなれば、それは社会にとっての損失です。といっても、日本では政府が完全にモラルハザードを起こしているので、それ以前の問題かもしれませんが。
したがって、法的に問題はなくとも、良識に反していたり、他人に対して不当な苦痛を与えるなど、公正性に反する場合には、市民の言論活動などによって止めることが必要になる場合もあります。分かりやすい成功例としては、レイシストへのカウンターやヘイト動画通報などを挙げることができるでしょう。いずれも根絶には至らずとも、その規模を大きく減じることには成功しています。

では今回のような炎上商法が行われた場合、どのように対抗するのが効果的なのか。私が知る限り、最も良いのは徹底的に炎上させて燃やし尽くしてしまうことです。
長谷川豊氏は「透析患者は殺せ」で炎上を仕掛けましたが、燃やし尽くされてレギュラー番組をすべて失い、しかも維新から出馬するも強い反発を呼ぶばかりで、結局落選。杉田水脈氏は安倍政権の本音担当として差別を垂れ流し、その異常思想によって名を売りにいった結果、徹底的に燃やされて自民党ですら形ばかりながら「指導」をすることになった上、「生産性」をめぐる余波は今なお続いています。
このプラントハンターを自称する炎上芸人はかつてクリスマスツリーでやらかしましたが、今回の件でももともと炎上必至のやり方に加え、以前の大炎上で作られたコークスに今回の炎が引火して高温化した側面もあり、徹底的に燃やされた結果として販売は中止。氏は「危険物件」として広く認知されるに至ったことでしょう。

NEWSの窓:メディア 差別と闘う 「どっちもどっち」は無し

おっしゃる通り。ただ、これを書いた人は分かっておられるとしても、分かっていない人間がこの新聞社内も含めてゴロゴロいるようですが

どっちもどっち論。マスメディア上で多く見られるのは、無理やりな両論併記であったり、「とされる」「とも取られかねない」といった「そう取る奴が悪い」と言わんばかりの表現であったり。また、どっちもどっち論を誘発する不正確な表現として「ヘイトスピーチ(憎悪表現)」も散々使用されてきました。これらがどれほど著しく公正性を毀損してきたことでしょうか。
例えば、最近でも杉田氏のLGBTヘイト、東京医科大学の女性差別など、日本で差別を見ない日はありませんが、これらはいずれもただの差別です。「差別と取られかねない」などではなく「差別」です。理由をつけようが何しようが、単なる差別です。そして、杉田発言についてしっかり許されないと明記しているのが、こちらは読売新聞の子ども用コーナーという笑えなさ。毎日といい読売といい、どうして子どもコーナーでは正しい説明が書けるのに、大人が読む部分では全く話にならないのか。
子どもに「それなら、許されない発言をしているような人や政党について、なぜメディアはまともに批判し戦おうとしないのか」と問われて、答えられるのでしょうか。

ここに「○○人を皆殺しにしろ」と主張する者がいます。そして、それに対して「そんなの許されるか」と反対する者がいます。これがどっちもどっちであるとしたら、ではその中間点はどこでしょうか。両論併記をするとしたら、その落としどころはどこでしょうか。「○○人を皆殺し」と「それは許されない」の間からどの点を選んだとしても、100%留保なしの「許されない」を選ばない限り、「○○人をある程度なら殺していい」ということにならざるを得ません
差別には明確な力関係の差が存在します。力関係の差がなければ差別にはなり得ず、差別問題を考える上では常にこれを念頭に置かなければなりません。
力関係が違う以上、差別の構図を放っておけば被差別者が一方的に蹂躙されます。ひ弱な子どもと老人が屈強なヤクザの大軍に絡まれ、必死で抵抗している、という場面があるとして、これを「ケンカはどっちもどっちだ」と放置しておけば弱い側が容易に蹂躙されるだけです。おまけに、この場合のヤクザとはすなわちマジョリティの力を背景にした存在であるわけですから、自分がマジョリティである限りは自分もヤクザに力を貸している側となります。
つまり、「止める」以外の選択肢はすべてヤクザに味方することと同義です。自分も差別に加わるか、どっちもどっち論などで中立を気取るかの違いは、自分もヤクザに手を貸して蹂躙を手伝うか、自分は手を下さずヤクザに汚れ仕事をやってもらうか、ただそれだけの差でしかありません。
さらに恐ろしいことに、マジョリティの一部はヤクザに襲われている弱い立場の人々が涙を流して耐えている間は「おお、ひどい話だ。かわいそうに」などと言ったりするくせに、彼らがもう殴られたくないからと抵抗したり身を守ろうとしたり、社会に苦境を訴えたりし始めた途端に「逆らうのか?生意気だ!でしゃばるな!」などと言い出したりします。要するに、被差別者が従順である限りは二級市民扱いくらいならしてやる、という極めて差別的な態度を取るわけです。
しかも現状で運よく特権階級側につくことができた名誉一級市民の被差別者が差別側に同調する、という地獄絵図もしばしば繰り広げられます。

こうしたものに対して、メディアは「NO」と言う責任があります。差別は差別であると述べ、差別者の攻撃と被差別者の抵抗を「どっちもどっち」にせず、不公正な両論併記は行わず、また従順であることを条件とした二級市民認定なども正しく差別と断じなければなりません。
しかし実際はどうでしょうか。立場の弱い人々を権力などの巨大な力から守るため、それに匹敵するほど大きな力を与えられてきたメディアが、権力や社会の差別と手を組み、強大な力を用いて弱い立場の人々を蹂躙する場面を、一体何度見せられたことでしょうか。新聞が強い者の味方をして弱い者を叩き、テレビで被差別者を面白おかしく蹂躙し、大手出版社さえも売れるからとヘイト本を出す絶望的な光景を、今までどれほど目にしてきたことでしょうか。それがマジョリティ側の人間から見ても最低劣悪な光景であるならば、マイノリティにとってはどれほどの恐怖や絶望でしょうか。
子どもコーナーに書かれる、すなわち子どもでも十分理解できるようなことを、大人はなぜできないのか。このような状況は恥も恥、子どもにも笑われてバカにされるほどの大恥だと考えるべきでしょう。

2018-08-11 の記事 - 2018-08-11
森氏、サマータイム再度要望 首相「内閣としても検討」

バカじゃないの?

捏造・改ざん・もみ消し・ヘイト、何でもありのこの異常な政党・内閣はいつもこれです。しかもオリンピック自体が老人の道楽同然に招致が開始された大義のないもので、こちらもまたロゴから競技場から何もかも大騒乱。現代日本におけるこの2つの巨大ゴミが合わされば、大惨事になることなど分かったようなもの
さすがに実際には導入されないと信じたいところですが、この内閣は国民を苦しめることであれば何をやってもおかしくありませんし、たとえ回避されてもこんなものが検討されることからしてどうかしています。

なお、本件については自民党・安倍内閣支持者のうち、これが実現されればあおりを食う人々の一部も真っ青になっている模様。今まで他者を踏みにじる行為、異常で全く道理に合わないやり方を平然と支持しておいて、自分が被弾すると分かった途端に大騒ぎですか。散々支持していながら、LGBTヘイトの直撃を食ったら騒ぎ出した勝間氏でもあるまいに、恥という概念がないのか(無論、今までの行いを反省して転向する人がいるならそれは歓迎です。まずは踏みにじってきた人々への真摯な謝罪と、自民や在特周辺やその他ヘイト勢力への明確な不支持表明、そして贖罪の開始は最低条件ですが)。
今まで散々やってきたように、どんな滅茶苦茶な政策でも何の疑問も持たずに支持でもしていればよろしい。他人の首にかけた縄は平気で引っ張ってきたのですから、自分の首に縄が巻かれた時にも同じようにすればよろしい。
自分が支持してきた内閣の異常行為によって大災厄がもたらされたとしても、まさか内閣の異常行為に反対してきた「反日」どもの手を借りたりなどしないでしょう。親愛なる内閣のために自分らだけでデスマーチでもなんでもして対処すればいい。それで力尽きたら、終戦の日コスプレ大会でおなじみの某神社にでも祭ってもらってはいかがか。
本来、サマータイムに反対する人は誰でも「味方」のはずですが、捏造・改ざん・もみ消し・差別などの不公正の山に対して怒るどころか支持していた人間が「味方」になったところで何の役にも立ちません。どうせ自分は被弾しないが被差別者・困窮者などが大いに苦しむ滅茶苦茶な案が出てきたら、そちらは大喜びで支持することでしょう。そういう輩などいるだけ邪魔ですし、手を組めば余計悪い方に進むだけです。

東京五輪が待ち遠しくない

この状況下でよくぞこのような見解を書いたものです。そして、書いてあることはいずれもごもっとも。

ただ私としては、やはり「かかわってくるな」ではなく「返上しろ」と言いたいところ。
自分という視点で考える場合、確かにオリンピックが自分に一切かかわってこなければそれで十分です(実際には不可能でしょうが)。私の知らないどこかで勝手にやって、私に一切迷惑をかけず、勝手に終わって勝手に後始末をしてくれればいい。報道も、オリンピックが好きな人にはスポーツチャンネルやスポーツ紙を見てもらい、一般のメディアでは政治などの問題を扱う時間を一切減らさない。競技は国ではなく選手の競争としてのみ扱い、国としての闘争心を煽るような報道はしない。そうである限り、私個人はそれで構いません。
ただし、社会的な観点から見るとそうはいきません。このオリンピックには大義も公正性もなく、よって返上するのが社会のために必要であるからです。
国民の支持をろくに得られない状況で老人の道楽同然に立候補し、招致には疑惑が付きまとい、アンダーコントロールなるデマまで吐き、安価な五輪と嘘を言い、ロゴで大モメ、競技場で大モメ、共謀罪など悪法成立に活用、被災地を利用して招致しておきながら被災地からリソースを奪うことになり、卑劣にも学徒動員までもくろみ、ボランティア駆り出しのために休暇をずらすやら大迷惑の連続で、しかもそのボランティアとやらは単なる無賃労働、そして今度はサマータイムだの何だの。そこに大義は何一つありませんし、自己満足連中と利権連中のバカげた机上の空論によって一般の人々が苦しむだけです。
そしてオリンピックが終われば、そこで生み出された多くの財政負担と、散々無理が通されたことによる制度及びモラルの崩壊により、焼け野原同然の未来が待っています。

自分のことだけでよければ、「かかわってくるな」は最も容易な答えです。しかし、社会の観点から考えるならば、オリンピックは返上するしかありません。
開催されてしまった場合の大災厄に比べれば大したことはない違約金でも何でも払い、オリンピック予算は地震・豪雨・台風の被災地に振り向けたり、人道的な避難所設営用の設備を整えたりすればいい。
国際社会に対しては恥だとしても、オリンピック招致決定からここまでに積み重ねてきた恥、そしてこれから積み重ねる恥を考えれば、こちらも大したことはありません。そもそも、捏造・改ざん・もみ消し・差別・歴史修正内閣が国を動かし、ヘイトデモやヘイト議員が横行し、土俵はおろか入試ですら堂々と女性差別がなされている現状を超えるほどの恥はないでしょう。
後は「もう始めたことだから」「今さら文句を言うな」と言い続けて焼け野原まで行くか、途中で踏みとどまるか、ただそれだけです。

2018-08-02 の記事 - 2018-08-02
杉田水脈議員に自民党が指導 「配慮欠く」と異例の見解

差別及び優生思想を垂れ流しておいて、処分ですらなく単なる指導ですか。しかもその内容もどこかで見たようなアレ。配慮を欠くだの不適切だのではなく、「LGBTに対する著しい偏見及び優生思想の両方に基づく極めて悪質な差別」です。LGBTヘイトと相模原事件の犯人の優生思想が合体した悪魔のような議員など辞職させるのが当たり前。そうなると自民党議員はほとんど辞めることにはなるでしょうが。
ともかく杉田氏は辞職、二階氏と「先輩方」も厳しく処分。それは最低限必要でしょう。

>石破茂・元幹事長や小泉進次郎・筆頭副幹事長が相次ぎ批判するなど、波紋が広がっていた。

ヘイト発言で気分が悪い中、ますます気分が悪くなります。杉田発言に対する人々の反応は早く、LGBTでない人も「差別を容認してはならない」「生産性の思想を放置すれば、問題はLGBTにとどまらない」として即刻LGBTと連帯、あっという間に抗議を作り上げました。
ただの市民がそれぞれ動き、抗議を作り上げたのに、自民党議員として一定の責任を持つであろうこの世襲坊やはその間一体何をしていたのか。抗議の声が激しくなったので石を投げてみせただけ。おかしいと考えているなら、問題が出始めた時点ですぐに頑としておかしいと主張し、党に対応を迫るのが当然ではありませんか。それでも党が全く対応せず、差別発言がどうしても許せないなら、考え方が全く異なるのだから離党しかない。
当然、氏はそのようなことは絶対にしません。実際には差別を許せないと考えているわけでも、差別政党である自民党と思想を異にするわけでもないからです。

二階氏「大げさ、この程度の発言で」 杉田水脈氏巡り

杉田もろとも辞職しろ、ゴミクズ以下の議員が。

ところで、やはり先日の自民党前抗議がかなりの効果をもたらしているようですが、これに東京レインボープライドが参加したのは、そもそも当然とはいえ画期的なことであったといえるでしょう。

レインボープライドのような運動体は、表面上の「政治性」を嫌う傾向にあります。それを明確にするよりは、曖昧のままで済ませた方が運動の広がりがよくなるという読みがあるためです。
その結果、運動が「政治的」にならないように細心の配慮するという、実は最も政治的な立ち位置の下にこうした運動体は存在してきました。
そもそも現代社会の人間にとって、その生活はそのまま政治に関わるものですし、ましてやLGBTの人権擁護と制度上の差別の撤廃を求める活動が「政治的」でないことなどできません。すなわち、その活動を「政治的」でないものとすること自体が極めて政治的な打算の上で成り立ち、政治的な方針として機能していたわけです。
そして、それは確かに途中まではある程度上手くいっていました。もともとマイノリティの中でもかなりの人口を持ち、多くの人が漠然と肯定するであろう「(性の)多様性」を題目とし、日本社会の中でも注目を築き上げてきたLGBTは、各自治体や企業・学校などにとっても無視のできない存在となり、徐々に権利を勝ち取ってきました。
これはいわば、主張する側と受ける側の双方が「政治性」にフタをするという非常に政治的な駆け引きの下でなされたものであり、LGBT運動体の側は政治的立場はさて置いて、とにかくLGBT差別解消を申し入れ、受け入れる自治体などの側も政治的立場はさて置いて、「多様性」や「人権」を題目として啓蒙活動を行ったり、制度を作ろうとしたりしてきました。
運動が進んでいくにつれ、この「大人の関係」が上手く回らなくなる(いずれ運動体の側は自らの「色」に自覚的になり、受け入れる側もより積極的な観点から差別解消に動くようになる必要がある)のは時間の問題でもありましたが、ともかく政治や自治体・企業・学校などの側としても、本音はどうあれ多様性や人権を表立って非難するわけにはいかず、とりあえずここまでは歯車がかみ合っていました。
しかし、ここで異常な政権である安倍政権の、しかもその異常思想を垂れ流すスピーカーとしての役割を持った杉田氏が、大変なことを言い出しました。彼らにとっては「多様性」も「人権」も、本音どころか建前の上ですら守る必要がないと考えているものですから、この場で「大人の関係」の構図は一瞬にして壊滅することとなりました。

こうなってしまっては、レインボープライドの側も決断を迫られます。そして、彼らは差別や人権、そしてその政治性などを十分理解している運動体のはずですから、抗議に参加しないことは、参加することよりもさらに政治的である事実を即座に認識したに違いありません。
例えば、政治家でも何でもないが影響力はある有名人なり企業・団体なりが強力なLGBT差別を垂れ流したとしましょう。そうすれば、LGBTの運動体はこれに抗議を出すでしょうし、一般にはそれが政治的と呼ばれることもありません。「透析患者は殺せ」の長谷川豊氏に関係団体が抗議を出したのと同じです。
ところが、それを垂れ流したのが自民党の議員であったならば、抗議することがその時点で「政治的」なものとなってしまい、自らを「政治的」ではないものと位置付けようとすれば抗議ができなくなってしまうのです。ただの有名人や団体などが相手なら抗議できるのに、それよりも責任が重く、実際に立法にかかわることができる議員へは抗議ができないとすれば実に本末転倒な話で、「政治的」ではないことの政治性をこれほど強く認識させられるものもありません。
結果、レインボープライドは抗議の道を選びました。妥当な判断でしょう。そしてまた、もはや「政治的ではない」という極めて政治的な立場を貫くことも不可能となった状況にとうとう直面したこれからが正念場であるといえるでしょう。

どのみち、それはいずれ必要な変化でした。
「LGBTの地位が向上するなら、それを訴える相手が人権を縮小しようとする勢力でもよい」「LGBTの地位は向上させるが、在日など他のマイノリティの差別問題にかかわれば政治的になるので関係しない」。LGBT運動を「政治的」ではないものとする代償が、このようなひずみを生んでいたのです。
例の「生産性」発言は、LGBTのみならず、障碍者やその他のマイノリティをはじめ、この社会のありとあらゆる人間に向けられた刃です。この腐りきった優生思想・差別思想を否定するのは、まさに人間や社会が持つ多様性に他なりません。
彼らが抗議で掲げたレインボーは、人種・民族・出自・その他あらゆる多様性の象徴であって、もはや単に性多様性のみを表すだけの記号ではないと信じます。
そして、これは本件だけに当てはまることではありません。「政治的」ではないという極めて強い政治性を帯びる様々なものは、いずれその皮肉な政治性と決別しなくてはならないのです。こと、政権与党が差別主義者として精力的に差別をまき散らす異常事態となってしまった現状においては、決してそれを避け続けることはできません。

2018-07-27 の記事 - 2018-07-27
LGBT:「生産性なし」自民・杉田議員の寄稿が炎上

さすがは事実上の当選保証によって自民党に引き入れられた自民党議員様。この上なく自民党を明確に体現していて、まさにゴミクズ以下の存在です。実際、ゴミクズは廃棄の必要があるなど負担になりますし、有害物質を含む場合すらありますが、能動的にヘイトを吐き散らして他人の尊厳を踏みにじり、その生命を危険にさらしたりはしません。比喩でもなんでもなく、杉田氏と自民党は本当に「ゴミクズ以下」なのです。
杉田氏の主張は相模原事件の犯人のそれと根底において全く変わるところがありません。しかも杉田氏によれば、大臣クラスの者も含めて先輩方から「間違ったことは言ってない」などと声をかけてもらえているとのこと。
悪質な差別主義者として知られる杉田氏を議員にし、差別推進の急先鋒として活用し、実際にヘイト発言をした時にも止めるどころか激励する。これが正真正銘の自民党の本音であるわけです。異常者の、異常者による、異常者のための政党であるとしか言いようがありません。
そして、相模原事件の犯人と同じことを平然と主張する議員や政党を未だ支持する人間がこの社会にいるという事実が、そのまま被差別者を恐怖させ、生命の危険につながることを、これほど分かりやすく示している事例もありません。自民党や安倍内閣に関しては、もはや支持すること自体が加害行為であると言っても過言ではないでしょう。
これに文句がある支持者がいるなら、今すぐ自民党や安倍内閣に抗議活動でも何でもして差別をやめさせたらいい。どうせそんな者などまずいないでしょうが。立憲民主党が小林よしのりを呼ぶ、相乗りをするなどの行為に出た時に激怒したり(なお私は、立憲民主党が小林よしのりを呼ぶような態度を改めない限りは同党を支持しませんし、比例票も入れていません)、共産党が募金デマを流されたのになあなあな態度を取るのに対して「ちゃんと訴えろ」と怒ったりと、各党の支持者は支持できないことにはきっちり怒っていますが、自民党支持者は自民党に差別をやめてもらっては困るわけですから。

LGBT:二階氏「人生観いろいろ」 杉田氏の寄稿静観

ほら、この通り。差別という他人の尊厳・人権を否定し排除する攻撃行為に及び、それも相模原事件の犯人と同じような選別思想を主張してみせた事実は、到底「人生観」で片づけられるものではありません。ところが、それは自民党にとっては「人生観」だと。やはり自民党は異常者の集団のようです。

あらゆる人には人権があり、人として尊重される権利があります。尊重されなくていい人間、排除されていい人間などいませんし、それを選別する権利を持つ人間もいません。
ただし、それにはただ1つ、「他人の人権を尊重し、それを踏みにじらない限り」という条件がつきます。
例えば、「○○(属性)の者を(相対的または絶対的に)尊重する必要はない」などとして、他者の尊厳を奪い去り、排除をしようとする人間が現れたとしましょう。
「○○」と「○○を排除しようとする者」、この両方を尊重することはできません。すなわち、「○○を○○という理由で排除する(例:障碍者を障碍者という理由で、LGBTをLGBTという理由で、他民族の人を他民族という理由で、女性を女性という理由で排除する)」か、「○○を排除する者を排除する」か、必ずどちらかを選ばなければなりません。
これに中立や妥協点はありません。例えば「○○を皆殺しにしろ」と「それは許されない」の中間点は「○○をある程度なら殺していい」ですし、妥協するなら「○○をこれくらいの人数までなら殺していいとして手打ちにしよう」となりますので、どのような点を中間点もしくは妥協点にしようとも、それはすべて排除側を尊重し、○○の側を否定することを意味します。
当然ながら、人を人として尊重しようとするならば、排除する者を排除することになるでしょう。障碍者・LGBT・特定の人種や民族・女性などはその属性を自分の意思でやめることはできませんし、それを理由に排除するなどというのは「死ね」と言われるも同然です。一方、排除する者が人として尊重されたいのであれば、今すぐ排除をやめて償いを始めればよいだけで、両者の立場は全く異なります(実際、反省を口にして改善に動き始めた元レイシストを、被差別者自身も含む反差別者が「まだ信用はしていない」と言いつつ気にかけて世話を焼くといった光景も、この社会では見ることができます。まさに暗黒時代の灯火のような光景です)。
「○○を○○という理由で排除する」ことを止めるためには、杉田氏や自民党連中、レイシストなどは排除されなければなりません。

はっきり言って、杉田氏や自民党をこのままにしておけば、この社会に存在するいかなる人間も無関係では済みません。彼らが「生産性がない」と認定しさえすれば、それがいかなる属性の人間であれ、どのような目に合わされてもおかしくないのですから。
例えば、平均値以下の人間であれば「相対的に生産性がない」とみなすことができるでしょうが、格差が非常に拡大したこの社会で、平均を上回れて「生産性がある」人間がどれだけいるでしょうか。あるいは、誰しもいずれ年老いますし、明日にも病気や交通事故で倒れ、障碍が残るかもしれません。地震や津波、豪雨などの災害によって生活を薙ぎ払われることもあり得ます。子を持たない人、持てない人、経済的に無理という人、すなわち生殖の面で「生産性がない」人も非常に多いでしょう。
こうして「生産性がない」人間を順番に排除していけば、それまでは「生産性がある」とされていた人の順番も間もなく回ってきます。ダルマ落としの1つ上のブロックが、一番下のブロックをゲラゲラ笑って、あるいは「お前がどうなろうと知ったことか」と言わんばかりの目で見ている、というのはなんとも滑稽な風景ではあります。
自民党が次に「生産性がない」認定をし、社会から排除しようとするのは誰か。あなたです。ホモセクシャルの人間が否定されようが、彼らが「生産性がない」認定されようが関係ない?あなたはダルマ落としではその1個上のブロックでしかありませんが、なぜ彼らを無視したり、笑えるのでしょうか?

ところで、先日LGBTであることをカムアウトしていた勝間氏が、本件の自民党の対応について文句を言っているのを見かけました。経済系のヘイト党支持者が、差別したい系のヘイト党議員らに横っ面を張り飛ばされて怒っているというなんとも皮肉な展開に。
そんな党を散々支持してきた結果、今までどれだけのマイノリティがこの党と内閣にぶん殴られ、魂を殺されてきたか、これを機によくよく認識すればよろしい。といっても、それが認識できるなら、最初からこんなマヌケな有様にはなっていないかもしれませんが。この党が在日や困窮者などをぶん殴っている時点では喝采を送っていたら、次はLGBTである自分の番がやってきた。最初から起こるべくして起きたことではないですか。
ともかく、自分が張り飛ばされる番になってから文句を垂れても遅いのです。繰り返し言いますが、この次に排除されるのはあなたです。

2018-07-21 の記事 - 2018-07-21
小1男児が熱中症で死亡 校外学習中に「疲れた」訴え

相次ぐ学校熱中症問題。これらは直接的には厳しい気候によって引き起こされたものですが、実際には猛暑は問題が顕在化したきっかけにすぎません。
学校は事実上の治外法権であるというのが日本の常識であり、例えば街中で子どもを殴れば逮捕されるところを、学校内で教師が犯行に及べば大抵の場合は逮捕されない現実があるわけですが、これと厳しい気候条件がかみ合えば何が起こるか、容易に想像できようというものでしょう。
結果、体調不良の6歳児を炎天下に引き回して殺したり、校舎の周りを80周させるデスマーチを命じて殺そうとしたりといった大変な事態となり、さすがにこうなると学校の外に対して事実を公開せざるを得なくなり、外部から見ると異常としか言いようがない状況の一部がようやく表面化し、世間を唖然とさせることになるのです。

運動部のみんな、熱中症「無理」「もうダメだ」の勇気を

書かれていることは正しいにせよ、意味のない記事です。
なぜ学校で熱中症が起こるのか。「暑いから」ではなく「構造的な問題があるから」です。
差別やセクハラなどの問題にある程度詳しい人にとっては自明なのですが、このような場合には構造的な力関係の差が必ず背景にあり、それゆえにデスマーチの末に倒れるといった、普通に考えれば無理でダメなことが発生してしまうのです。
そしてこの場合、「被害者」側に呼び掛けることは良くて無意味、悪くて有害です。例えば差別ならマジョリティ側の問題ですから、被差別者に何かを要求してはいけませんし、セクハラなどの問題なら被害者本人が戦うことは当然自由ではあるものの、戦うことを強要する権利は誰にもありません。
また、本人が戦わなかったからといって侵害行為がより軽いとみなされることがあってもいけません。よくある「嫌ならなぜきっぱり拒絶しなかったのか?」はまさに被害者に責任を転嫁するワードでしかなく、「力関係のために拒絶できないから」に決まっています。
学校の熱中症問題もこれと同様です。記事を書いて切り込むのであれば、力関係の弱い「被害者」に「拒絶しろ」と言うのではなく、この力関係の構造にこそ切り込まなければならないのです。

今回の熱中症問題は、学校内で平然と行われている異常事態を表面化させるきっかけとなりました。
であるならば、熱中症への直接的な対策はもとより、この構造的な問題を解消していかなければ、似たような問題を今後とも何度でも繰り返すことになるでしょう。例えば根性論によるエアコン設置・稼働の否定は、別件でも根性論によるトラブルを引き起こすことが目に見えています。

「ニュース女子」で人権侵害、在日女性が「DHCテレビジョン」とジャーナリストを提訴へ

どこからどう見てもヘイトデマの塊である異常な放送をしていながら、不完全極まりない謝罪に至るまでにすらこれほど時間がかかりますか。

権力とは巨人のようなもので、その気になれば無力な個人など簡単に踏みつぶしてしまうことができます。そこでメディアには、彼らが暴走しないように監視し、万が一暴走した場合はそれを止めるため、巨人に匹敵するほどの力が与えられています。政府が沖縄や女性、朝鮮人などを踏みにじっているのに、メディアが一緒になって踏みにじるとはどういうことですか
同様に東京新聞も問題です。無論、会社の者が言論活動をすることは自由でしょうし、それが会社の方針と食い違っているからといっていちいち処分してはならないでしょう。それがデマやヘイトスピーチである場合を除いては。「東京・中日新聞論説副主幹」の肩書で箔をつけてヘイトデマの銃を乱射したのですから、責任ある企業としては厳しく対応しなければなりません。
あんなヘイトデマが何をまかり間違ってか電波に乗ってしまったのは、それ自体が驚愕すべきことですが、責任ある立場のはずのMXや東京新聞といったメディアがとことん誠実に対応しなかった事実はますます驚愕に値します。
DHCのようなヘイトデマ企業が発生してしまうのは、残念ながら完全には防ぎようがありません。その卑劣なヘイトデマを右から左に垂れ流し、まともな謝罪も対処もしないメディアの問題は極めて深刻です。

なお私は、表現の自由は公共の福祉による制限を受け、他の権利との兼ね合いの上でのみ認められるものと考えていますが、表現の自由を至上主義的に重んじるとすれば、実際にはこのようなヘイトデマこそ徹底的に非難し排除しなければなりません。
例えば、経済活動の自由が最大限尊重されるとして、「ニセ札を製造する自由」「良くて無意味、悪ければ危険物入りのニセ商品を偽って売る自由」は経済活動の自由として容認すべきでしょうか。それを問題視する人々に対して「ニセ札やニセ商品に文句があるならば、それをやめさせるのではなく、自分が正しいと考える経済活動によって勝負を挑めばいい」と反論することは適切でしょうか。経済活動が自由だからと、細菌兵器や破壊兵器などの殺戮兵器、危険なドラッグなどを売りさばくことは適切でしょうか。
経済活動としてニセ札やニセ商品の自由を認めれば、経済の信頼性が破壊されてそれ自体が成り立たなくなり、経済活動のためには殺戮兵器を売っても何をしてもいいとなれば社会自体が破壊されます。
表現の自由を守ろうとするなら、デマをまき散らし、人権を侵害し殺戮などの大惨事をも招くヘイトスピーチをまき散らすことには非常に厳しくなければならないのです。