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(いまさら消すにも忍びないので残しておいた16進カウンター)

雑記帳(過去ログ)
2016-08-21 の記事 - 2016-08-21
Edgeについては劣化競争の通りとして、今さらながらWindows 10の感想ですが(RS1についてはまた次回)、予想以上にひどすぎます
まずムッと来るのが「アプリ」なる言葉。何なのでしょうか、アプリというのは。こういう言葉をPCに導入可能なOSにおいて公式に使ってほしいとは考えません。
そして何はなくともスタートメニューですが、デフォルトでは右側のタイルが悲惨な状況に。興味もないものを押し付けないでほしいのですが。使いませんし。10を導入して最初にした作業は、これらのタイルを全部片づけて必要なプログラムを登録することでした。
スタートメニューにドラッグするなどして項目を放り込めず、移動や削除もできないのは、不便なだけでなくかなりマズいです。項目を登録または移動したくなったり、アンインストールしてもスタートメニューから消えなかったものを消したくなったりすることはよくありますが、これをするには非正規の手段を経なければならず、初心者が下手にこれをやろうとするとかなりの危険を伴います。FirefoxのJavaScript設定項目の除去にしてもそうですが、UI上の逆説としてうかつに制限することは逆に大きな危険を招くのです。
EdgeのUIについては劣化競争で触れましたが、他にもたびたび固まったり、動作が重くなったり、タブを開けなくなったりし、機能的にも他のブラウザに全く太刀打ちができず、あらゆる面で商品未満な出来栄えです。アップデートは可能であるにしても、リリースしてそれなりに時間も経つだろうに、さすがに怠慢が過ぎるでしょう。おまけに以前から懸念していた通り、アクセラレータも消されました。こんな欠陥商品、レンダリングエンジン以外は全部捨てて作り直した方がマシな気がするのですが。一応評価もしておくと、Webページに書き込める機能は面白いのではないでしょうか。使いませんが。

ただ、ここまではまだ序の口です。標準アプリケーションのひどさたるや筆舌に尽くしがたいもので、私の環境下で発生したエラーや問題を簡単にまとめると、

・Groove ミュージックは、ローカル上のあらゆる音楽やビデオをライブラリに一切読み込まない。OneDriveに上げた場合は読み込める。単体の音楽をGroove ミュージックに再生させることはできるが、他のメディア再生ソフトを使えばいいので意味はない。
・映画 & テレビも、ローカル上のビデオをライブラリに一切読み込まない。
・フォトもまた、ローカル上の画像をライブラリに一切読み込まない。しかも、こちらはファイルを開くこと自体はできる上2つと異なり、画像を開くとDLLのエラーにより落ちるので全く何もできない。旧来からのソフトであるペイントやフォトビューアーは問題なく使えるので、そちらで代用するしかない。
・Solitaire CollectionはDLLのエラーにより、起動することができない。ゲームなので実用上は困らないが、伝統のゲームが使えないのは少々寂しい。
・Windows DVD プレイヤーは起動するなりエラーが出る。起動した状態でDVDをセットすると見ることは一応できるが、不便な上に無理やりである。また、そうまでして使っても機能的に貧弱であり、VLC Playerなどを差し置いてこれを使う理由はない。代替ソフトが残されている画像や音楽と違い、DVDはサードパーティ製のソフトなしでは問題なく見ることが不可能であり、なぜあらゆる点でこのプレイヤーに勝るWindows Media Centerを削除したのか理解に苦しむ。
・Cortanaはとりあえず使えてはいるが、突然消えてしまうことや、何を言っても全く聞いていないことがある。イベントビューアを確認すると、例外をかなり頻繁に投げまくっている様子。英語版Cortanaの話であり、日本語版でどうなのかは未確認。また、中国語版ではCortanaから曲を開ける場合もあるが、なぜか曲によってはEdgeで検索されてしまう場合もあり、アーティスト名による再生も受け付けてくれない。
・Cortanaの問題か、アプリケーション側の問題かは不明だが、BBC Storeをインストールしてからアンインストールしたところ、CortanaのヘルプにBBC Storeの記述が残留してしまった。wsresetなども効果なし。レジストリに残ったゴミらしきものを全部始末しても同じ。Cortanaの問題とすればひどいし、アプリケーション側の問題だとしても、そうしたバグなりミスなりで残ったものを手動で削除する正規の手段がないのは問題がある。→RS1でCortanaからヘルプの項目自体が消えてしまった。

と、まんべんなく問題がある状態です。正式リリースから1年経ってこれですか。しかもこれ、ただ単に使いづらい、あるいは機能が貧弱なことに関する文句ではなく、深刻なエラー絡みの問題のみを抜き出した結果です。
最後の2つ以外の問題はユーザーを新規作成して移行することによって解消できましたが、ユーザーを作成してデータなどを移行し、設定を以前のものに戻すのはかなりの作業になりますし、なぜこのようなことになるのかわからない以上、再発におびえながら使わなくてはなりません。無論、ユーザー移行の前にwsreset、dism、sfcなどありとあらゆる手段を試み、そのすべてで効果がなかったのは言うまでもありません。
結局、まともに使えるソフトのほとんどが過去のソフトとは。往年の名作をリメイクしたり配信して食いつないでいる、日本の旧優良ゲームメーカーらを彷彿とさせます
未完成品としか言いようがない(しかもかねてからの懸念通りアクセラレータを消してしまった)Edge、一番高機能なメディア再生ソフトが今では古いWindows Media Player、プログラム欄すらまともに編集できないスタートメニューなど、Microsoftの昨今の混迷は手に取るように読み取れるだけに、色々と残念なものがあります。

最初にWindows 10について「ひどい」と述べましたが、バグに関しては「ひどい」としか言いようがないものの、他に関してはこの表現は適切でないかもしれません。ただただ、極端にプロ向け仕様になってしまったのです。
スタートボタンの右クリックから、コンピュータの管理やら、デバイス マネージャやら、コマンド プロンプトやらを開けるのはなかなか衝撃的でしたが、これがWindows 10の方向性を象徴しています。
最低限、システムディレクトリやレジストリに素潜りしたり、タイルを作るためのXMLコードとサーバーサイドプログラムを書ける程度の腕前がなければ、Windows 10はただの劣化にしかなりません。7で普通にできていたことを10でも行うには、スタートメニュー1つ扱うだけでも素潜り行為が必須になっているためです。タイルにしても、自分にとって必要なタイルを自分で作成するのでなければ、役に立つことはあまりないでしょう。
これが全部できてようやく、Windows 7から大きく見劣りしない程度のカスタマイズ性を維持しつつ、10のUIの長所をわずかながら活かせるようになり、ようやく収支が均衡します。この上さらに、何か作業をするのに手を使いながら音声でCortanaに命令を出すなどの使い方ができて初めて、10の方がわずかに価値が大きいと言うことができます。以上を1つでも満たさないのであれば、セキュリティやサポートの問題を除き、10を使うメリットはありません。

2016-08-13 の記事 - 2016-08-13
戦後から戦前へと移り変わった世の中において、終戦の日を迎えます。
終戦の日といえば、戦没者を政治利用して「他国に屈しない自分」アピールをしようと考える、欲望に目をギラつかせた外道政治家連中が、遊就館などで靖国史観を垂れ流す神社に連れション参拝をすることがもはや日本の伝統となっているようですので、慰霊と政治利用の問題について今のうちに述べておきます。
まず大前提として、靖国に家族が眠ると頑なに信じる遺族が参拝するのなら気持ちは十分理解できますが、政治家が靖国に参拝することは、戦没者の慰霊目的では断じてあり得ません。もし戦没者の慰霊をしたいのであれば、わざわざ日本政府の公式見解から大きく逸脱する(はず。憲法すら捻じ曲げる今の政権では分かったものではないが)靖国史観を垂れ流す場所になど行かずとも、千鳥ヶ淵に行くのが妥当だからです。なお、「千鳥ヶ淵はあらゆる戦没者を慰霊した場所ではない」と言い訳がなされることもありますが、靖国に祭られている対象こそ恣意的に限定されていると知っていれば、そのような言い訳が意味をなさないことはすぐに分かります。そして当然、他にも広島、長崎、沖縄の各種慰霊施設など、珍妙で異様な歴史観を垂れ流していない様々な場所で慰霊の念を表することは可能です。
政治家にとって、千鳥ヶ淵になく、靖国にあるものは何か。大雑把に言えば、戦没者を踏み台として政治利用して他国の神経を逆なですることにより、他国(言うまでもありませんが、中国、韓国、北朝鮮のみならずロシア、アメリカ、シンガポール、EU、国連などが参拝を批判し、インドも苦言を呈するなどしており、「反対するのは中韓だけ」は完全なデマです)に屈しないアピールができること、及び自らが靖国史観の擁護者であると支持者にアピールできることの2点です。前者は慰霊と称して実際には戦没者を踏み台にしている点で論外、後者は日本政府の立場とは相容れないものであり、少なくとも政権与党の議員が行っていい場所ではありません。とはいうものの、在特会系のイベントに出たような連中が平気で要職に就いている国ですから、その程度の常識すらないのかもしれませんが。
政治家が千鳥ヶ淵での慰霊では満たせないとある「理由」を持ち、その「理由」のため靖国で自称慰霊を行う。この時点ですでに、その行動は一分の例外もなく政治的なのです。これへの批判に対して「戦没者を政治利用するな」などと異様な反論がなされたりしますが、自分が真っ先に政治利用しておいて、他人が政治利用をしたように見えたら許さないなどというのは、人間としての神経を疑います。

ただし、慰霊の場所として千鳥ヶ淵を引き合いには出しましたが、私はこれを完璧な慰霊の場所とみなしているわけではありません。
千鳥ヶ淵に関する動向を見る限り、ここはどうにもワキが甘いように見えて仕方がありません。もし靖国がもはや慰霊の場とは誰にもみなされなくなり、千鳥ヶ淵に参拝することが慰霊の方法として当然となったならば、おそらく靖国史観派は千鳥ヶ淵を第二の靖国にしようと動いてくるでしょう。千鳥ヶ淵の政治的中立性を毀損することは決して難しいようには見えませんし、軍人のコスプレをして喜ぶような連中が続々と集まってくれば、慰霊の場としての雰囲気は一変することでしょう。
そうして千鳥ヶ淵が第二の靖国となれば、当然ながら政治家がそこへ参拝することには国内外から批判が出てくることになります。その時にはきっと、千鳥ヶ淵に靖国史観を持ち込んで滅茶苦茶にしてしまった連中は、勝ち誇ったような顔をしながらこう言うことでしょう。「ほら、中韓や国内の売国奴は、政治家が靖国ではなく千鳥ヶ淵に慰霊に行くようになったら、そちらに文句をつけ始めた。あいつらは結局、何をしても文句を言うのだ」と。
そこまではいかなくても、現状でも千鳥ヶ淵を政治的に利用することは難しくありません。最も手軽で簡単な政治利用の方法は、単に千鳥ヶ淵と靖国、両方を訪問することです。こうすれば、「私は慰霊のために靖国に参拝をしている。千鳥ヶ淵にも参拝したのがその証拠だ」といった言い訳が可能となり、靖国に参拝することの政治性を、千鳥ヶ淵の中立性を利用することによって容易に隠蔽してしまえるのです。
少しでもまともに考えれば、「靖国史観に賛同し、戦没者を政治利用して外国を挑発すること」が「政治的に中立な別の慰霊施設を訪問すること」によって無効化されるわけがないことくらいは誰にでも分かりそうなものですが、今の日本からはその程度のまともささえも失われつつあります。
結局、千鳥ヶ淵は現状において政治家が慰霊を行う場所としては明らかに靖国より妥当であり、千鳥ヶ淵ではなく靖国で自称慰霊をすること自体が極めて政治的な行動であるという事実を白日の下にさらけ出せるだけの施設ではありますが、同時に非常に不安定な施設でもあるのです。
したがって、私としては最終的に、以下のような方法を取るべきだと考えています。

1.真に中立で宗教・政治的思想のない公式な施設の作成
千鳥ヶ淵に隙がなければそこでよいのですが、怪しいと言わざるを得ません。また、神社の性質上からして祭る対象が恣意的に限定されている靖国は論外として、千鳥ヶ淵もあらゆる戦没者を慰霊する場ではないとされることがあります。それなら、完全に中立な施設を用意して、あらゆる犠牲者に対して等しく慰霊の意思を表し、二度と同じことを繰り返さないと誓う場にすればよいのです。
それですら日本会議派や靖国史観の連中は政治利用の道具にしてしまうかもしれませんが、そこまでになるともう施設の側でどうこうできる問題ではありません。日本社会の良識が試されるところです。もっとも、極めて明瞭な靖国の欺瞞すら十分問題にされていない今の日本社会にそのような良識があるかと問われると、限りなく怪しいと言わざるを得ませんが。むしろ良識があれば千鳥ヶ淵で十分なのであり、ゆえに私は日本社会の良識が足りなかった場合に少しでもダメージが少なくなる中立施設を推しています。

2.靖国から一切の「英霊利権」の剥奪
靖国史観の者が、どこかの片田舎の神社でピーピー騒いでいたところで、そんなものはピエロでしかありません。靖国は立地や知名度もさることながら、「英霊」が祭られている場所とされている現実と歴史的経緯があり、しかも首相や政治家が参拝するなどして公的な権威づけを次々と与えてしまったため、靖国史観がいわば「英霊利権」の後ろ盾を受けて大々的に垂れ流される状態となっています。
したがって、靖国からは「英霊を祭る権利」を剥奪し、その役割を中立の慰霊施設に与える必要があります。それが戦前戦中の「国策」と、戦後それを放置してきたことに対する日本の責任です。それでもなお靖国がみっともなく英霊利権にすがろうとするようならば、「日本政府は靖国を慰霊施設とは一切認めないし、靖国の主張するデマ歴史には公式に反対する」と宣言することによって、靖国を日本国の公式見解としてモグリ・カルト認定してしまうべきです。靖国はその歴史的性質上、非常に政治的色彩を帯びた施設となっていますから、靖国が何か日本の見解に反するようなことを主張するたび、日本政府としてそれを公式に否定し非難することは特に重要です。
要するに、ピエロが巨大な利権を用いることによって怪物化しているのが靖国なのですから、ピエロはピエロに戻すべきなのです。軍服コスプレをしているピエロと一緒に戯れているくらいが、現状の靖国の本来の「格」でしょう。

3.「もったいない精神」の排除
「日本のためとして若者が戦って死んだが、結局日本は空襲や食料の欠乏でたくさんの犠牲を出し、原爆を落とされた末に敗戦し、何一つ止められなかった。しかし戦死者を犬死に認定するのはもったいないから英雄にする」。このような精神は百害あって一利なしです。
開戦時点で敗北は予期されており、負けが込んできたら特攻や無茶な作戦などで若者を殺し、それで勝てたかというと結局は無条件降伏したのですから、これははっきり言って無駄死にです。そこは認めなくてはなりません。無論、無駄死にしたのは本人のせいではなく、若者の命を捨て去った責任のある者がいて、また後世への反省ともしなければならないわけですが、「もったいないので無駄死にではない」とすることはそれらすべてを否定するものであり、愚かにもほどがあります。
単純に考えて、敗北は避けられない状態で命を捨てさせられた若者が死なずに済んだとして、彼らが復興と経済成長のために尽力したならば、日本はより豊かな国になっていたわけです。「もったいない精神」に基づく慰霊など、慰霊ではなく単なる自己満足でしかあり得ません。これらが「無駄な死」であったことをまず認めなくては、遺族の個人的な慰霊ならまだしも、より広い意味での慰霊のスタートラインに立つことすらできません。
慰霊の場を作るにせよ、既存の場をより公式的な場にするにせよ、これは必要となります。慰霊の場がうかつにも「彼らの死は無駄ではない。意味がある死だった」などの精神を表明しようものなら、人の命を無尽蔵につぎ込んででも国体とやらを持ち上げようとする連中に、いずれ付け込まれることになるでしょう。

無論、これらは仮に実現できるとしても先の話であり、とりあえず今は次善の場として千鳥ヶ淵などが正当な慰霊施設となります。
現状において慰霊をしたい政治家は千鳥ヶ淵、または広島、長崎、沖縄、その他各地の慰霊の場を訪問すべきであり、慰霊を口実にして靖国史観のピエロ神社に連れション参拝をし、戦没者を政治利用して冒涜、他国の神経を逆なですることにより、軍服コスプレ野郎やヘイト野郎、その同類どもの支持を得ようと試みるような最低な政治家を絶対に許さないことを、私は数え切れぬ人の命を奪った戦争が終わった日を前に、明確に宣言しておきます。

2016-08-06 の記事 - 2016-08-06
ブラウザ劣化競争・2016年夏季大会

Edgeを使えるようになったことから、当サイトおなじみ・ブラウザ劣化競争の評価を行います。なお、「退化」は進化の一形態であり、意味のある行為ですから、これは「退化」競争ではなく「劣化」競争です。したがって、機能が充実しているか否かではなく、「ブラウザまたはUIの基礎として当然あるべきものがない」ことを種目としています。
ブラウザに求められる要素には、閲覧速度、安全性、標準への準拠度など色々ありますが、ここでは原則としてUIのみを取り上げます。なぜなら、速度や安全性その他はUIにほとんど影響を与えずに改善可能であり、UIもまた他の機能にかかわらず改善が可能だからです。また、今ではどのブラウザでもそれなりに速度は出ますし、何が何でも速度が必要な分野は限られ、必要ならばその時にのみ適切なブラウザを使えば足ります。標準の準拠についても、実際にはどのブラウザでも大抵のサイトは閲覧可能です。どれを使っても性能的にはさほど差のない状況では、重要な決め手はUIとなるわけです。
以下の種目について各ブラウザを評価し、点数(劣化競争なので少ない方が優良)をつけてみました。劣化部分は赤色、劣化に対抗する部分は青色で表記します。劣化部分1つにつき1点、劣化部分があっても完璧な代替手段があれば問題はないので0点、不十分なら0.5点をつけています。
なお、機能の追加がアドオンなどの導入によって可能となる場合、それを言い出せばきりがなくなってしまうため、「できる」とはみなされません。あって当然の機能が標準搭載でないこと自体が、ブラウザの劣化に他なりません。

種目の解説
  • アドレスバーと検索バーの統合
    この両者は全く異なる方向性の機能であり、「テキストを入力するという意味では同じだから」として無理やり統合するようでは困ります。「建造物や拳銃が必要という点で同じだから」といって、警察署と暴力団事務所を統合するでしょうか。
    検索ワードとURLを同時に保持できず、タブを切り替えた時の挙動が厄介なのが大きな問題点。検索ワード・URLをタブごとに別々に保持するのなら、とある入力を新しいタブや別のタブで開きたいと考えてもそれができず、共通なら別のタブを押してもそのURLを確認できなくなる、または検索ワードが消えてしまうことになります。
  • 更新・停止ボタンの統合
    重いサイト、安全性に疑問が持たれるサイトなどを開いてしまい、「中止」ボタンを押そうとしたら、その瞬間に読み込みが終わっていて「更新」されてしまう事態が起こります。また、重くてなかなか操作を受け付けてくれない場合に、中止ボタンを連打すると悲劇が起こることも。おまけにページによっては数回の遅延読み込みを繰り返すことがあり、その際には「更新」と「中止」が頻繁に切り替わるため、統合ボタンによる制御は事実上不可能となります。キーボードショートカットを使う手もありますが、それを言い出すとボタン自体が無意味化します。
    思想的には「読み込み完了時には中止ボタンには意味がないし、更新と統合してしまえばいい」程度のものなのでしょうが(ただし、逆に更新中に更新を重ねたいことなら割とある)、これは「アクセルを踏んでいる間はブレーキは踏まないし、車が移動していない時にはブレーキは役に立たない。だからブレーキペダルを配置するのは無駄だ」と車のアクセルとブレーキを同じペダルにするようなもの。私はそのような車、絶対に乗りたくありません。正反対の機能を同じボタンに持たせてはならないというUI上の基本の好例です。
  • メニューバーの廃止
    機能へのアクセスに手間がかかるようになります。また、お気に入り・ブックマークへはメニューバーからアクセスできるのが普通ですが、これがなくなってしまった場合、お気に入り・ブックマークバーを嫌でも表示することになりかねず、そうなるとメニューバーと同じだけの領域をお気に入り・ブックマーク機能を使うためだけに浪費することになります。
    別の言い方をすれば、メニューバーはブラウザの機能にアクセスする役割を持ち、かつお気に入り・ブックマークバーの役割も併せ持つ、複合的なシステムであるわけです。そこからわざわざ機能アクセスの要素を削除し、同じだけの画面領域は浪費するのがお気に入り・ブックマークバー、すなわちこれはメニューバーのモンキーモデルなのです。好きな方を使えるようにするのならまだしも、メニューバーは廃止しておいてお気に入り・ブックマークバーを残すなど、マヌケとしか言いようがありません。
  • オプションからJavaScriptのON/OFFを設定できる機能を排除
    セキュリティやパフォーマンス上の重大な懸念を生み出します。「初心者が誤ってOFFにしないように」なる言い訳がつけられますが、万一間違ってOFFにしてもチェック1つつけ直すだけで解決します。これをOFFにできなかったせいでトラブルが発生する方がよほど問題は厄介です。いわば「誤って非常口に入る人がいると困るから」と言って非常口に鍵をかけるようなもの。
    オプションから比較的容易に設定できるのではなく、難解な設定に深入りしなければできないような場合、実用上変更ができるとみなすのは難しく、しかも誤って設定を破壊してしまう恐れが強くなるため、「設定できる機能」とはみなしません。「初心者がJavaScriptの設定を誤って変更する」ことを抑止するために、「初心者が設定をする際に他の設定を壊す可能性がある」ようにしてしまうのですから、これは初心者に対して大変厳しい仕様です。
  • オプションの設定項目の縮小
    設定ができればできるほど、ブラウザ環境は自由度を増します。設定可能な項目が少ないことは、そのままブラウザの評価に直結します。過去(非タブブラウザ主流時代)より設定項目が大幅に減っているようでは話にならないので、この辺を十分か否かの基準とします。
  • ボタンなどのカスタマイズ性の低下
    ボタン配置はユーザーにとってこだわりのある部分です。人によってよく使うボタン、あまり使わないボタンが変わってくるためです。これが設定できるならばユーザーにとってありがたいブラウザとなりますし、さもなければ開発者の自己満足UIリサイタルに付き合うしかありません。それがまともなUIならまだしも、更新・中止の統合であったり、右側メニューであったりするのでは、ご遠慮申し上げたいところです。
  • 右側メニュー
    人間工学・UIの原則に反し、全方位にケンカを売った最低最悪のインターフェイス。左から右に文字を読む多くの文化圏において、これほど不自然なものもありません。まさにUI史に残る最悪の発明といえるでしょう。もしこんなものが本当に良いUIだというのなら、メニューバーは右側寄せで描画され、「スタート」ボタンも右側に置かれているはずです。そうでないことがそのまま、これが史上最低のデザインであることを物語っています。
    なお、右側メニューを横展開式にしないことによってUI上の不便さは軽減できますが、そうするとメニュー内で提供できる機能が大変少なくなり、これとは別にメニューバーなどを用意せねばならない無意味な事態に陥るか、あるいは機能自体を徹底的に削減して不便にするかの二択となります。
  • リンクをタブバー、特定のタブ、自タブなどにドラッグできない
    言うまでもない。絶対必要な機能です。なお、自タブへのドラッグは新しいウィンドウを開かせたくない場合、リンクのトレースを無効化したい場合などに便利で、タブブラウザでなくても持っているべき機能です。持っていないとすれば商品未満だ、と言いたいところですが、恐ろしいことにそういうブラウザも存在するのです。
  • 勝手に再読み込み
    開いておいたタブが勝手に無効化されているらしく、切り替えた途端に再読み込みされることがあります。信じられませんが、そういうブラウザがあるのです。もはや嫌がらせ。
  • 貧弱な履歴機能
    通常、ブラウザで見た何もかもをお気に入りやブックマークには放り込んではいられませんが、後で読み返したいもの、後から読み返す必要性が出てくるものは多々あります。これを早く正確に見つけるには、豊富な履歴機能が絶対に不可欠であり、ただダラダラと並べられるだけでは探すことすらままなりません。
  • お気に入り・ブックマークへのアクセスの悪さ
    お気に入り・ブックマークはユーザーにとっては重要な起点であり、好きな時に即刻アクセスできないようでは困ります。クリック数・マウスを動かす量が少なければ少ないほど快適さは増します。結構多くの項目が収録されがちな関係上、スクロールなども少ない方が楽になります。また、多くの人にとって重要である性質上、ブックマークバーなるものを表示して領域を食わずとも、普通に使えるものであるべきです。
項目名 Internet Explorer Edge Firefox Chrome
アドレスと検索バー 統合 統合 統合だが標準で検索バーが使える 統合
更新・停止の統合 統合 統合 統合 統合
メニューバー 使用できる 使用できない 使用できる 使用できない
JavaScriptのON/OFF できる できない(グループポリシーで設定) できない(複雑なコンフィグの変更が必要) できる
オプションの設定項目 かなり充実 寂しい かなり充実 寂しい
ボタンなどのカスタマイズ ほぼ不可 ほぼ不可 できる肝心なことはほぼ不可 ほぼ不可
右側メニュー あるメニューバーで完全に代替可、横展開あり 使わねばならないが横展開なし あるメニューバーで完全に代替可、横展開なし 使わねばならない上に横展開あり
リンクをタブバーにドラッグ さすがにできる なんと不可能 さすがにできる さすがにできる
勝手に再読み込み いくらなんでもしない いくらなんでもしない いくらなんでもしない してしまう
履歴機能 左側にバーを表示して行う。充実 右側メニューのバー式で、使えないではないやりづらい 別ウィンドウで行う。充実 むごたらしい
ブックマークへのアクセス メニューバーから 右側ボタン→お気に入り。横展開ではないが展開のたびクリック。またはバー メニューバーから 右側メニュー→ブックマーク。右側メニューなのに横展開式。またはバー
得点 3点 9.5点 2.5点 9点
なかなかレベルの高い戦いとなりました。特にUI上、最もやってはならない基本中の基本である「更新と中止の統合」と「右側メニュー」を全ブラウザが採用していることは、これら基本の蹂躙が劣化競争において当然化したことを意味します。メニューバーをなくしてUI上最悪な右側メニューを強制的に使わせる、JavaScriptの設定を困難にする、お気に入り・ブックマークにアクセスするのを面倒にするなどの手段により、ユーザーのストレスをよりきめ細やかに蓄積させていくことが、ここしばらくのトレンドのようです。
劣化大賞はEdgeとなりました。おめでとうございます。Chromeも0.5点の差を競り合う大健闘。ただ、元祖劣化ブラウザであり、かつ他のブラウザに影響を与えてブラウザ全体の強力な劣化を誘発したChromeでしたが、Microsoft肝入りの大劣化ブラウザの前には一歩及びませんでした。単純な操作感からしても、この2つは本当、飛びぬけて使いづらいですから、競り合うのも納得です。今後も精進してください。
ちなみにEdgeに関しては、調査中何でもないようなところでいちいち固まるという症例も繰り返し見受けられました。今回は速度に関しては対象にしませんでしたが、全方位的に完璧だと言っていいでしょう。ただ、Edgeがリンクをドラッグする機能を競技時点で追加していればChromeの勝利となったほどの僅差であり、どちらが勝ってもおかしくない内容でした。
以下、競技に参加した選手たちの健闘を称え、一言ずつコメントをつけておきます。

Microsoft Edge
堂々たる王者です。さすがは劣化王者というだけの強力な風格と威厳を備えていて、ひとたび使えばなぜこれが劣化王者なのか、誰でもすぐに理解できることでしょう。Chromeの劣化部分はほとんど取り入れ、まだしもマシな部分は自分で劣化させ、ただひたすら劣化を極めたその姿には、劣化機能美が極限まで凝縮されています。当サイトのイチオシ劣化ブラウザです。その究極の使い勝手の悪さを、ぜひ一度は体験してみてください。

Google Chrome
Chromeには劣化の代わりに軽さというウリがありましたが、時は流れて軽さがあまり長所にならなくなったことから、劣化具合をより純粋に評価できるようになってきました。最初期からそれほど変わらぬ姿に、時代を先取りした革命的な大劣化具合がよく分かります。このブラウザが登場しなければ、他のブラウザがこれほどまでにむごたらしく使いづらくなることもなかったでしょう。まさに劣化競争の風雲児と呼ぶにふさわしい存在です。今回は優勝とはなりませんでしたが、きっと近いうち、想像もできないような大劣化を私たちに見せつけ、戦慄させてくれるに違いありません。ちなみに以前、スクロールバー上下の矢印ボタンが削除されたことがあります。さすがに文句が大量に出て、すぐに戻されましたが。この絶望的までの想像力のなさこそが、きっとブラウザ劣化競争のパイオニアとしての地位を支えているのでしょう。

Internet Explorer
このブラウザは今からすると若干古いですから、この競争は不公平なものではあります。劣化の進歩は早く、次々と劣化の新機軸が生み出される現代において、少しの世代の遅れは致命傷となります。スコアには含めていませんが、アクセラレータも自作すれば辞書やピンイン表示など色々便利に使えるので、劣化大賞を狙うには力不足に過ぎました。基本的にはまずまず使いやすいブラウザの地位にあるため、これに見切りをつけてEdgeを後継とし、劣化競争に一気に参戦したMicrosoftの決断は、Chromeと渡り合える劣化ブラウザを作る上では正しかったといえるでしょう。

Mozilla Firefox
非常に使いやすいブラウザであったのを、JavaScriptのON/OFFを排除するというChromeですらやらなかった大暴挙に出る(かつユーザーの阿鼻叫喚の声を全部無視)など本気を見せて劣化競争に参戦したはいいものの、その後もIEと競り合うのがやっとであり、劣化は最下位に終わりました。競争の世界は厳しかったようです。他にも「更新」と「中止」を統合する、右側メニューを導入する、自由にできたボタンのカスタマイズを排除するなど、堅実な歩みなれどチクチクと不快感を催させる劣化を少しずつ進めていただけに、不本意な結果でしょう。堅実な劣化程度では、もう劣化競争にはついていけないのかもしれません。検索バー、メニューバーなど、他のブラウザが劣化を進めるため廃止した要素も維持しており、独自路線を歩んでいるようにも見えます。今後の劣化に期待しましょう。

現状、Chromeのシェアがブラウザ界を圧倒しているといいます。軽さはともかく、UIに関しては何一つとして見るべき点のなかったChromeの殴り込みに対し、それを真似ようとした結果としてデッドコピーと成り下がり、逆に泥沼に飲まれることになった他のブラウザの状況を憂慮します。また、シェアが危機的だからと撤退する陣営が出てくれば、近隣商店をことごとく叩き潰した唯一の大型店のような図式となってくるでしょう。
なぜ現状でもIE系やFirefoxを使う人がそれなりに残っているのか。ChromeのUIその他に疑問を持っている人が多いからです。それなのにChromeのデッドコピーと成り下がったらどうなるか。今使っている人たちはいなくなり、逆にデッドコピーをあえて使おうとChromeから乗り換えてくる人も少ないでしょう。ではどうすればいいか。劣化の流れを断ち切るしかありません。
最低限、「アドレス・検索バーの分離」「メニューバーの復活」「右側メニューの全面廃止」「更新・中止の分離」だけでも構いません。ただそれだけの変更が、ストレスを半減させます。「自分が必要ないと考えるUIは廃止する。お前らがどう考えていようと知らない。お前ら使うな」からの脱却、これがそのまま劣化競争からの脱却なのです。

2016-07-30 の記事 - 2016-07-30
ついに日本でも、憎むべきヘイトクライムが大勢の人の命を奪ってしまいました。この事件の犯人、ならびにこの事件の犯人と同等の主張を行ったり、その行いを評価している者に対し、人として許される限りの最大限の怒りと侮蔑の意思を表明します
健常者も障碍者も、マジョリティもマイノリティも、社会的強者も弱者も、その全員が人間です。そのいずれかを人間として扱わないような者は、それこそ自らが人間であることを放棄しているのです。

本件は日本社会において予想外の事件などではなく、起こるべくして起こったものです。私は再三、「レイシズムによる殺戮は、もはや起こるかどうかではなく、いつ起こるかの段階である」と言い続けてきましたし、これと同様の見解を表明していた人は多くいます。言うなれば、日本社会は毎日、重大なヘイトクライムが起こるか否かのクジ引きをしていたのであり、今まではたまたま良いクジを連続で引いていたから何も発生しなかっただけなのです。
そして本件により、「特定の属性の人間を殺すというような意思表明をしている者は、機会さえ整えば口だけではなく本当に人を殺す」「レイシズムは人を殺す」ということが、誰の目にも明らかになったことでしょう。社会のレイシズムを放置する、あるいは特定の属性への差別を行う者を放置することは、重大な事件を引き起こし、社会不安を引き起こします。
現状でもインターネットで「○○氏を殺す」と書き込めば逮捕されます。殺人を予告しているのですから当然のことでしょう。しかしながら、「障碍者を殺す」「○○人を殺す」に関してはさほど問題視されておらず、殺意を発露したり扇動するような書き込みは山ほど見ることができます。それどころか街中で平然とそう叫ぶ者さえ存在しており、あろうことか警察までがそれを護衛する始末。しかし、これらが行き着く先がどこであるか今回はっきりと示された以上、今後ともこれらを放置することは殺戮への加担にも等しい行為です。
現実で叫ぶ者は当然として、インターネットでこのような書き込みをしている者に対しても、断固とした措置を取ることは絶対に必要です。特定個人を殺すと言えば逮捕される以上、「障碍者・○○人を殺す」が無問題とされることはそもそもおかしいのです。「殺す」を放置していれば奴らは本当に人を「殺す」、この今回の教訓を活かすことは社会の責任です。
同時に、この社会にはびこる「殺すと言わないだけの在特会」とも戦わなければなりません。レイシズムのない社会でいきなり特定の属性の人々を殺すといった主張が飛び交い、差別思想に基づく大量殺人が起きることは考えられません。ピラミッドのように「殺すと言わないレイシスト」が「殺すと言うレイシスト」を支え、そして「殺すと言うレイシスト」が「実際に人を殺傷するレイシスト」を支えているのです。上の方だけを取り除いたところで、土台がある限りは何度でも「次」が現れます。
そしておそらく、一番下で「殺すと言わないレイシスト」をがっちり支えているのは、「在特とやらもカウンターもうるさい」「ヘイトスピーカーに対するヘイトスピーチ」などと平然と言い、「○○人を殺す」を「殺すと言うな」と同列のものとして自然に受け入れている連中です。
ピラミッド型の構造は、底辺部分の面積を広くすればするほど、高くそびえ立つことができます。「差別デモが街中で平然と行われる」「レイシズムによる大量殺人が起こる」ということはすなわち、「レイシズムの土台はそれほどに広く大きい」ことをも意味しているのです。

そしてまた、(人種差別は自分に関係あろうとなかろうとそれ自体が問題なのであり、このような言い方は少々はばかられますが)差別への積極的な加担であるか、無関心による加担であるかを問わず、差別の加担者らが排外主義・障碍者差別は外国籍の者・障碍者に「のみ」作用すると考えているのであれば、おマヌケもいいところと言わざるを得ません。ナチスの虐殺やニーメラーを出すまでもなく、排外主義・障碍者差別の次は性的マイノリティなどが犠牲となるでしょうし、そうして犠牲者を平らげては次の層を犠牲者としていけば、いずれは自分の番が来ます。その時にあわてて助けを求めても、誰も助けてはくれません。自分がかつて他国籍の人や障碍者に対して吐き捨てた言葉を、今度は自分が「上の」層から吐き捨てられ、同じ目に合うだけです。
なお、やはりナチスの手口をなぞるかのように、デマの山である在日特権ならぬ「障碍者特権」なるものが差別を正当化する理由とされることがありますが、これなどはまさに噴飯ものです。それほど障碍者が素晴らしい特権的地位にあるというのなら、今すぐにでも手や足を破壊するなり、目を潰すなり、脳への酸素供給を妨げるなり、任意の方法で障碍者になって特権とやらを手に入れればいいのです。しかし、私はそうして特権を手に入れ、幸せに暮らしている差別主義者を寡聞にして知りません。つまり、実は差別主義者どもは障碍者になってもうまみなどないということを、非常によく理解しているのです。理解していながら特権などと言い張り、差別を行っているのです。このような連中のゲスさ加減は、私が知る限りの最大限の侮蔑の言葉をもってしてもなお全く表しきれません。
レイシズムは被差別者にとって、明日は本当に殺されるかもしれないと感じさせるほどの恐怖です。そして事実、取り越し苦労ではなく本当に殺されうることを今回の事件は証明しました。したがって、社会が「犯人の言うことも理解できる」と言うのならば、それは被差別者にとっては極めて大きな現実的脅威であり、逆に「断じて許せない事件だ。社会は断固として障碍者の方々を守る。傷つけようとする者がいるなら許さない」と被差別者に示すことは非常に重要なのです。さて、今の日本社会にそれができるでしょうか。

今回の事件のような悲劇をこれ以上発生させることがあってはなりません。そのためには、障碍、性的立場、人種・民族など、あらゆる対象へのレイシズムを絶対に許さないという姿勢が必要ですし、それができなければ今後も大量殺戮などのヘイトクライムが発生したり、最悪の場合は関東大震災やルワンダの虐殺、ナチス・ドイツの再来に至ることでしょう。
今の日本はもはや、「レイシズムによる犯罪が懸念される社会」ではなく、「レイシズムによって大勢の人が殺戮され、さらに犠牲者を増やそうとしている社会」なのです。日本社会にはもう、何の猶予もありません。

2016-07-24 の記事 - 2016-07-24
とうとう観念してWindows 10を導入しました。UI周りやバグだらけの標準ソフトなど不満点は多々ありますが、これは次回に回すとして、せっかくならば楽しもうということで、ひとまず英語版と中国語版のCortanaと戯れてみました。

外国語版のCortanaを使用する場合、最低限以下のことが必要になります。

1.設定画面の「時刻と言語」内の「地域と言語」タブにおいて、目的の言語を追加する。
2.その言語について、「オプション」から音声認識と言語パックをインストールしておく。

その上で、「時刻と言語」内で設定可能な以下の3つをすべて、目的の言語のものにしなくてはなりません(たぶん。1つくらい外れていてもいいのかもしれませんが、詳細には確認していません)。設定に食い違いがある場合、Cortanaに文句を言われ、動作させることができません。

1.「地域と言語」の「国または地域」を、目的の言語が使用される地域に設定する(英語なら英語圏の地域、中国語なら中国、など)。
2.「地域と言語」の「言語」で、目的の言語を既定の言語に設定する。なお、設定変更を完了するにはサインアウトして再びサインインせねばならない。
3.「音声認識」タブにおいて、目的の言語を選択する。

冷やかして遊ぶだけにしては、かなり面倒です。私はイギリス英語と中国語を導入して使用し、動作の確認が取れました。日本語版のコルタナの動作は現状では確認していませんが、おそらく動くのではないでしょうか。

Cortanaは設定により、"Hey Cortana"と呼びかけることで起動可能にできますが、リソースを食うということで標準ではOFFにされているようです。せっかくなのでONにしてみても面白いのではないでしょうか。ただし、終わったらOFFにすることを忘れずに
まともなマイクが手元になかったので、しばらくCCDカメラの内蔵マイクを使って試してみましたが、この場合にはひどい認識精度でした。しかもどういうわけか、異常なほど下品な言葉に解釈される傾向があります。さらにそれを検索しようとするので本気で困ります。おそらくBingの履歴にかなりマズい検索ワードがいくつも残ってしまったはずです。勝手に検索さえしなければ、まだ笑い話で済むのですが。
「ユーザーはアプリケーションを開いてくれと言っているのに、勝手にそれを性的ワードだと勘違いして"Nope"と拒絶する人工知能」なる場面を目の当たりにすると、人工知能とは一体何なのかという奇妙な疑問が湧いてきます。とりあえず、"I want to open Firefox"を"I want to have sex"と勘違いするのはどうなのでしょう。人工知能ならばおそらく学習をさせているはずですが、どういうデータを使ったのか問い詰めたいです。
ともかく、これには本音を言ってヘコみました。マイクの性能を言い訳にしてみたところで、私の発音がとんでもなくひどいと客観的に示されているのですから。本物のネイティブの人間ならある程度意味をくみ取って解釈もしてくれますし、少々下手でもほめてくれるでしょうが、人工知能は容赦などしてくれません。
仕方がないのでヘッドセットを調達(120円。こんな価格設定でいいのか?)し、どうせ変わりはしないだろうと話しかけてみましたが、これで認識精度は実用レベルまで向上しました。まさかマイクがこれほど大事だとは。Cortanaと遊ぶのであれば、安物でもいいのでちゃんとしたマイクを用意しましょう。といっても、カメラ内蔵のマイクで話しかける人はほとんどいないでしょうが。



左側:"I would like to see Voice of America website"と言ってみた結果。しっかりデフォルトのブラウザでVOAを開いてくれます。
右側:北京の時間を調べてもらう。インターネットには距離の壁がなく、代わりに時差の壁があるので、これは割と便利。天気などを聞く場合にも場所を指定できます。

なお、CortanaでGroove Musicを使うこともできるようですが、私の環境のGroove Musicはローカルファイルを一切認識してくれないため、試すことができていません。Groove Musicをアンインストールして再インストールしたり、sfcを使ってみたり、やれそうなことは全部やりましたが全部ダメ。普通に考えてファイルが見えないはずがないので、おそらくファイルを読むのではなくインデックスを使っているのだろうと予想し、インデックスを再構築したりしましたが、やはりダメ。さすがにお手上げです。

Cortanaには結構お遊びも入っているようで、"What is Cortana?"や"What is Siri?"、"Do you like Halo?"、さらには"I want to see you"なども受け付けてくれました(本当に画像が出る)。変に手が込んでいます。

中国語の方は、簡単な単語や定番の文ならば案外たやすく認識させられます。声調もしっかり聞いているようで、デタラメだとそれなりの結果にしかなりません。ちなみに定番のあいさつ文などの場合は、若干声調が崩れていても認識してくれました。



左側:本日はよいお日和で。
右側:「テレサ・テン」なんてのもしっかり認識してくれるのです(辞書に入っているらしいのがすごい)。

ただ英語版に比べ、いちいちEdgeを開こうとするのがなんとも。英語版の場合、ブラウザではなくその場で示してくれることも多いので、その辺は少々不便な印象を受けます。

惜しむべきは、言語の切り替えが非常に面倒であること。国際化の時代ですし、この辺は簡単な操作で切り替え可能にしてほしいところです(Cortanaの設定から簡単に切り替え可能にし、呼びかけ起動の際は呼びかけた言語やワードによってモードが変わるなど)。

2016-07-18 の記事 - 2016-07-18
鳥越氏の件。かなり腹が立っています。

最終的に候補が鳥越氏になったのは、妥当な選択であるとは考えます。東京都知事にふさわしい人物が宇都宮氏の方であることは間違いありませんが、色々な意味から都知事「候補」としてより有利なのは鳥越氏であるためです。
無論、そのやり方にはあまりにも問題がありました。民進党としては宇都宮氏に乗ることを避けたかったようですが、あのような方法ではいずれひずみが出ますし、そうなれば共闘もおぼつかなくなります。ある意味、宇都宮氏は外野の民進党本部と日本会議派の綱引き合戦の犠牲になったようなところがあり、氏にとって理不尽の極みであったことは想像に難くありません。
しかし残念ながら、事実として宇都宮氏は「勝てる」候補ではありません。しっかり政策を持ち、当選に向けてコツコツと活動を続けてきた人物でもあり、東京都知事としてより良い人物ではありますが、日本の有権者はそんなものを求めてはいないのです。
参院選において、政策をしっかり持ち、地道に市民のための活動を続けてきた候補は、なんとか当選できても余裕があるとはいえない勝利であったり、無情にも落選したりしました。その一方、政策も何も持たないどうしようもないタレントくずれがあっさり当選する始末であり、「勝つためには政策も成果もいらない」ことが非常に明確に裏付けられました。例外があるとすれば、人種差別などの問題で日本中を駆けずり回り、結果も出してきた有田芳生氏が代表例でしょうが、氏もまたこの成果だけでなく、「オウムの有田」(オウム真理教に立ち向かったジャーナリストであることから)として支持を得ているのも確かです。
東京都に限っても、稀代のレイシストである石原氏をあれだけ選出するほどであり、正攻法で訴える人物が新知事として選出されることになど何一つ期待できません。今回問題になった舛添氏も「家庭だんらん法案」などの国民をナメ切った放言で有名な人物であり、氏を選出することからして理解しがたいところです。このような結末に終わったことは、当然といえるでしょう。
こうしたことから、不本意極まりないことではありますが、知事にふさわしいのは宇都宮氏であっても、有利に戦うなら宇都宮氏よりも鳥越氏を選ばざるを得ないという結論に至るのです。

鳥越氏は一定の見識は有しており、単なるタレント候補というわけではありませんが(いくら「勝てる候補」でも、参院選のタレントくずれのような底なしの阿呆が出てきたならば、私は迷わず宇都宮氏を推していたでしょう)、知名度を優先して立てられた候補ではあります。では、そのような正攻法ではない手に出てまで勝たなくてはならないのでしょうか。
答えは、「平時であればNO」です。この選挙を落としたからといって特に支障がないのであれば、わざわざ有名人など立てることはありません。政策的に優れた宇都宮氏が立てばいいのです。勝てばよりふさわしい人物が知事になるわけですし、負けても命を取られるわけでなし、それはそれで仕方ありません。
しかし、現実の日本は危機的な状況にあります。もしこのまま憲法改正が発議され、緊急事態条項などが通ってしまえば、民主主義国家の日本は終わります。とにかく有利な候補がほしい場面であり、しかも共闘を失敗させて分裂選挙にするわけにもいきません。可能なら勝利、そうでなくても少しでも善戦である必要があり、かつ共闘が成立せねばならないのです。ここで分裂したり、あまりにひどい有様になるようであれば、立憲主義の破壊に弾みがつくばかりか、民進党内の日本会議派が何をしでかすか分かったものではありません。
まして、知名度のある小池氏は在特会ら差別主義者と懇ろな人物です。このような相手とさえまともに戦えないようであれば、明るい政治など絶望的であり、それこそ悪夢であると言わざるを得ません。
これらの理由から、私は鳥越氏が出てきた時から不本意ながら鳥越氏への一本化を支持し、宇都宮氏も8割がた、最終的に英断し取り下げに至るであろうと見てはいました。分裂なく共闘が成立したことを歓迎しますし、宇都宮氏が悔しさをこらえて英断を下したことには深い敬意を覚えます。過程が一方的かつ強引であったことには、全く賛同することはできませんが。

ただ、腹立たしい限りです。民進党に、ではありません(少しは共産党に恩を返せとは言いたいですが)。鳥越陣営に、でもありません。政策では勝負にならず、知名度で勝負することを優先せざるを得ないこの国のあり方に対して、腹が立っているのです。東京都知事選に関しても、私は別に何としても鳥越知事を誕生させたいのではなく、日本の死を首の皮一枚で食い止め、共闘の命脈をつなぐ手段として、またレイシストが日本の首都を牛耳っては極めて厄介であるため、実利的な側面から述べているだけにすぎません。
タレントくずれが簡単に当選でき、しかもそのタレントくずれの議席が日本の民主主義を蹂躙する一方、宇都宮氏が涙をのまなければならないような日本であることを、私は悲しみ、そして恥じます。

(追伸)例によってというか、鳥越氏のWikipediaページが荒らされたのだとか。
私にとって鳥越氏は特に擁護対象でもなんでもないにせよ、日本語Wikipediaのひどさには以前から閉口していたのでこれを期に書いておきますが、日本語Wikipedia上の差別関連記事・歴史認識にかかわる歴史記事・政治的主張をした人物などの記事は、資料として全く役に立ちません。特に歴史上著名な事象などは、英語版に記事がある場合も多いので、英語版の方を見るべきです。たとえ英語が苦手な人であっても、デマを読むのに比べればマシです。
以前、はだしのゲン騒動が発生した際には、はだしのゲンの関連項目に「反日マンガの世界」なるものが書き加えられていて苦笑した記憶がありますが、さすがは日本語Wikipediaと言いたくもなるような記事は少なくありません。
在特会関連などもひどいもので、差別主義者が起こした事件の記事はかなり差別側寄りに書かれていたりもします。差別カウンターの際、これは何事か、彼らは一体何なのかと聞いてきた人に対し、在特会の事件などを説明することがありますが、その人が後で調べてみてWikipediaの記事を読んだら、在特が正当だと誤認するのではないかと危惧しています(そういった人は連中の「殺す」を目前で見聞きしているわけですから、心配しすぎかもしれませんが)。ところが実際の裁判記録などを読んでみると、在特の主張は裁判所によってことごとく否定され徹底的に叩きのめされているのですから、裁判所が完全にNOを突き付けて不当な人権侵害だと認め、世界でも報じられて問題になっている案件をWikipediaが必死で擁護しているという、極めて意味不明な状況になっています。
日本語Wikipediaについて一応擁護もしておくと、メインカルチャー分野のマイナーな事象には確かに優良な記事もあります(「メインカルチャーであり」「その項目を執筆しようとする者が少なく」「優良執筆者がその記事に情熱を燃やしていて」「差別や歴史に関する争いと無縁」の条件を満たすと優良な傾向にある。その逆は大抵ひどい)。ただし、そのような記事は本当に一部です。時にはそれすら、どうしようもない連中に言いがかりをつけられたりしています。
中でも皮肉なのが、信頼性を担保するはずの「出典」システムが日本では残念な方向に作用している点。例えば、一般には(部数も含めて)あまり相手にされていない感のある産経新聞ですが、これが日本語Wikipediaに果たした影響は大きく、同紙がインターネット上のヨタ話を集めたような記事を掲載でもしたらあら不思議、その時点でWikipediaに載せることができてしまうのです。有志がこれをデマであると証明したとしても、そちらには権威がない、あるいは独自研究などとされ、記載されることはありません。
このところは宗教やSEALDsがらみなどで昼ドラ以下のくだらない争いを繰り広げていたりするようですが、ピーピーキャーキャー喚き散らして学生団体に対する悪口を入れるか入れないかでモメる、質も量も史上最大の百科事典とは一体何なのか、という哲学的な疑問が浮かんでくるところです。そのくせ日本会議などには厳密に配慮する徹底ぶり、ある意味では感心せざるを得ません。
はっきり言って、日本語Wikipediaは日本を愛する普通の日本人、歴史戦の戦士、中国・韓国・反日と戦う闘士、J-NSCなどを関連記事から排除できなかった時点で終わっているのです。彼らを放置すれば2chと同等になることくらい、分からないわけがあるまいに。なお、私はサブカルチャー分野にはあまり立ち入りませんが、そちらの記事は正確性はともかく案外充実しているようです。なんというか色々と、「さすが」の一言です。

2016-07-12 の記事 - 2016-07-12
選挙。なかなか微妙な結果です。
野党の敗北といえば敗北ではある。ただ、マスコミが露骨にコントロールされていた選挙としては、一人区をはじめとして予想以上の大健闘であり、共闘の成果がかなり出たともいえる。ただし、民進党が必ずしも協力的でないことによって、戦略次第では立憲主義側で取れたであろう議席を落とすことにもなっている。その結果、憲法改正の発議は可能とも不可能とも言い切れない辺りに着地しています。とりあえず、なんとか首はつながったとはいえるかもしれません。
今後は当然、「憲法の名を借りた憲法ではない何か」を拒否するフェーズに移ることになりましょう。あれが成立してしまえば、民主主義国家・日本は終わりを迎えます。私は憲法改正自体は否定しないどころか改憲派ですが、あれはそもそも憲法ですらない意味不明な代物なのですから、できる限り発議を防ぎ、発議されたら何が何でも否決しなくてはなりません。

現状、多少なりとも自民党の出鼻をくじいたことは、微妙ながらも選挙結果が一定程度示しています。もはや金魚のフンでしかない公明党には何一つとして歯止めなど期待できませんが、一部案を緩めたり封印したりと譲歩することにより、その他の勢力の協力を得ようとし、かつ国民をだますことは、ある程度は行われるかもしれません。
そして逆に、それが民主主義を守る上で危機的な状況を招くことも考えておかなくてはなりません。例えば憲法9条、これの変更は自民党にとっての悲願のような扱いとなっていますが、実際にはこれに手を付けなかったからといって、自民党はそれほど困ることはありません。すでに集団的自衛権を認める立憲主義破壊を成し遂げ、憲法を事実上無力化できている以上、無理に変更しなくても特に問題はないのです。問題があるとすれば、せいぜいメンツが立たない程度のものです。
一方、表現の自由規制、人権の剥奪、拷問を「絶対に」禁止しない変更、奴隷的拘束規定の緩和、立憲主義を無視して国民を縛る行為、そしてなにより緊急事態条項などは、おそらく自民党にとって本丸と言っていい内容です。
こと緊急事態条項は極端に危険であり、選挙をする必要がなくなり、立法権を行政に持たせて三権分立を無力化できるという極めて恐ろしいものとなっています。緊急事態を口実にしているわけですから、国民を国家に従わせることもできます。しかも他の人権制限規定などと合わせれば、独裁状態を作り出すことはさらに容易となります。
念のため言い添えておくと、いくら自民党といえども、改憲成立直後に即座に選挙の中止を行ってはこないはずです。自分が勝つ、あるいは多少負けても不利にはならない程度の選挙において、わざわざこれほど露骨なものに頼る必要はないからです。正攻法では厳しい場合であっても、表現の自由規制などを活用することで、より簡便に負けにくい状況は作り出せます。逆に、それでもなお選挙をすれば自民党が危険という状況になれば、この破滅的なカードが意味を持ってくるわけです。このカードを握られた時点では何の変化もないように見えても、実はその時点で勝負は終わりです。
国民が立法に影響を与える手段である「選挙」を封じることが可能となり、また行政に影響を与える手段であるデモなどの言論も、表現の自由が制限されることで行使が危うくなれば、もはやそれは民主主義国ではありません。したがって、この改憲案が通ってしまったならば、それがそのまま日本が民主主義をやめる日になるわけです。
これほど強力な武器なのですから、自民党としてはなりふり構わず手に入れたいことでしょう。自民党が9条なり何なりの改定を封印または緩和することで世論のガス抜きを行い、一方で「災害時に必要だから」と緊急事態条項を推してくる可能性は十分にあります。メンツにしかならないような条項の変更を断念する代償として、独裁状態を合法的に確立し、しかも三権分立も無力化できるのであれば、独裁を目指す者なら誰でもその悪魔の取引に乗るでしょう。
逆に言うならば、緊急事態条項や人権制限こそ絶対に成立させてはならないということでもあります。無論、立憲主義破壊勢力の手から9条も守るべきなのは当然ですが、緊急事態条項その他は9条変更よりもさらに危険です。「災害時に必要」などというデマに乗せられれば、恐ろしい事態が待っています。

自民党が改憲を主張しつつ、改正内容をやや譲歩してきたならば、それこそが民主主義の終わりの始まりであると考えるべきです。譲歩するということは、その分をカバーできるだけの利益が見込めることを意味しているのです。
大きな譲歩をしてきた場合ほど、また一見すると改憲を支持しても問題なさそうなことを言ってきた場合ほど、最も強く警戒し、しっかり否定せねばなりません。

2016-07-03 の記事 - 2016-07-03
参院選ですが、私はこの選挙について、政治思想に基づいて「○○に投票すべき」などと述べる気はありません。例えば集団的自衛権を認めるか否か、あるいは9条に自衛隊や個別的自衛権を明記するか否か、といったことについては、様々な考えが認められるべきであるためです。
ただし、これは言っておかなくてはなりません。

立憲主義を破壊する、あるいは差別を扇動する政党に投票するのは絶対にやめましょう。

私はこれらを政治的主張とは考えません。どちらも人間として、あるいは近代民主主義国家として当たり前のことであり、実際には政治的な思想が入る余地すらないのです。
テストで「憲法は何のためにあるものですか?」と問題が出た場合、答えは「権力を制限するため」です。自民党改憲案のようなものには、確実にバツ印がついて返ってきます。ある憲法改正案を「支持するか否か」は政治的思想ですが、自民党改憲案の是非を論じる上で政治的思想は不要です。支持するしないではなく、明確な誤りだからです。
立憲主義の概念は中学校、すなわち誰もが教育を受ける権利を保障されている範囲内で習うものであり、したがって国民のほぼ全員がそれを知っていることが期待されますし、またそれほどに基本的なことでもあります。ここに個々の思想が入る余地はありません。「1 + 1 = 3」が間違っていることが政治的思想ではないように、自民党改憲案が間違っていることも政治的思想ではないのです。
差別が許されないことも同様です。差別をしてはならないことなど、小学生でも知っています。現代の人間として当たり前のことです。差別を行うことは明確な誤りであり、そこに政治的思想はありません。さらに言えば、差別という不当な攻撃に対して「差別は政治的思想の範疇である」とお墨付きを与えることは、それ自体が差別への加担に他なりません。
どこぞの政党の議員からは、国籍や性別、性的立場などに関する差別発言が次々と飛び出します。おまけに差別主義者を飼い、対立する意見の相手に嫌がらせを仕掛けるなどして活用しています。有力議員と在特会ら排外主義者との関係もまた、次々に明らかになっています。以前には差別デマ拡散サイトである保守速報のシェア問題などといった悪い冗談のような問題もありましたが、その後も安保成立のために対中レイシズムが繰り返し煽られ、状況はいっそう悪くなっています。
「立憲主義の破壊」「差別の扇動」は、いずれも政治的思想などとは関係なく、明確な誤りです。これらを行う政党に投票するのは絶対にやめましょう。

なお私は、現状の日本は滅亡してもおかしくない状況に立たされていると考えています。
安倍政権は日本の何もかもを猛烈な勢いで破壊しています。貧富の差拡大政策であり、成果があると見せかけたいからと年金をギャンブルにつぎ込んだ挙句、首脳会談を利用して失敗の言い訳をでっち上げようとするも首脳らに総スカンを食った自称経済政策、立憲主義と民主主義、自由な報道や言論の破壊と、それによる報道の自由度大暴落、信じられない額のバラマキをしては気分の問題でケンカを売り、実際の成果としては鉄道も潜水艦も失敗した外交、オスプレイのデモやパフォーマンスを優先する震災対応など、どれを取っても日本の国力減退や安心の破壊に直結しています。
しかしながら、私は今回それを問う気はありません。なぜならば、国民がこのままである限り、安倍政権が消滅しようが何しようが日本が衰退するのは確実だからです。
「争点は経済か改憲か」などとは、実にすっとぼけた話です。サッカーのAチームの選手らがボールを手でつかんで持ち歩き、相手チームの選手を蹴り、果ては武器を持ち込んで振り回すようになったとして、「Aチーム、実績を強調。Bチーム、反則であると指摘」などと論じる輩がいたら、バカげているとしか言いようがありませんこれは明確な反則であり、そもそも試合になりません。即刻退場が当たり前です。
例えば集団的自衛権について、あるいは自衛隊と個別的自衛権の明記については、色々な意見が認められるべきです。しかしながら、「立憲主義の破壊」という反則行為をした者に対しては、もはや思想は関係ありません。集団的自衛権に賛成する者も反対する者も、9条への個別的自衛権明記に賛成する者も反対する者も、あるいはそれらに特に関心を持たない者も含めて、全員が即刻手を取り合い、反則者を排除しなくてはならないはずなのです。なにしろ、立憲主義の破壊は明白な誤りであり、こんなことは中学校の問題なのですから。
立憲主義を破壊されたこの期に及んでなお、与党または事実上の与党勢力に加担する者、あるいは見て見ぬふりをして棄権する者が多ければ、そのような国はいずれ滅亡します。ここで安倍政権を食い止めることができたとしても、日本会議のようなカルト勢力は民進党の一部議員にすら根を下ろしていますし、国民の人権や民主主義が存在しては都合が悪いと考える者は常に現れ続けます。国民が立憲主義破壊勢力の追放すら満足にできないのであれば、ここで安倍政権を食い止めることができるか否かなど、滅亡するのが今か後かの違いでしかありません。
9条のみならず、基本的人権は尊重されなくなり、拷問は絶対に禁止ではなくなり、公益にならないとみなされた言論は封じられ、さらには緊急事態に備えると称して立法権が行政の手に渡った上、政権を脅かすような選挙がなされなくなる恐れがある滅茶苦茶な改憲案ですら、「立憲主義」や「三権分立」といった基礎知識すらも国民の多くが持っていなければ、いずれは通ってしまうでしょう。
「まさかそんなことはしない」などということはあり得ません。現状の政府はすでに、今までの歴代自民党政権の言い分を真っ向から否定して立憲主義を破壊し、かつ改憲案には立憲主義は全く考慮されておらず、総理大臣からして立法と行政の区別もついておらず、レイシズムによって対外恐怖を煽り立て、報道は恫喝・懐柔によりコントロールされています。むしろ、現政府がここまでやっているのに、現政府または今後の政府がたかだかその程度のことをしないと考える方が不自然です。
絶対君主制においては、しばしば統治者の出来不出来が国の隆盛や滅亡にそのまま直結しています。民主主義は国民が主権者なのであり、国民が有能ならば国は栄え、無能ならば滅亡に向かうことは避けられません。そして「立憲主義」「三権分立」などといったことは、国民のほぼ全員が当然知っていることが期待され、権力に守らせねばならない基礎中の基礎的な事柄です。それを知らない、守らせない国民が多いとすれば、それは国民が絶対君主制における暗愚な君主に相当する無能ということです。
日本は滅亡してもおかしくない状況に立たされています。ただしそれは、「安倍政権の手によって」ではなく、「国民自身の手によって」、なのです。

2016-06-26 の記事 - 2016-06-26
サブルーチンでジェネリックスを使うことはできるとして、ではクラスにそれを持たせることはできるのか。
roleならば可能となっていました。
role RR[::T]{
	has T $.t is rw;
}

my RR $rr = RR[Int].new();
$rr.t = 100;
# $rr.t = "str";	# 型が違うのでエラー
$rr.t.say();
本当のclassに対して同じ記法を使おうとするとエラーとなりました。この記法を使いたいのであれば、roleを使う必要があるようです。古いドキュメントの中には、classに対して同様の記法を用いた例もあるようでしたが。
なお、パラメータとして型以外のものを与えてしまっても動作しました。
role Joiner[Str $sep]{
	method join(@list){
		return @list.join($sep);
	}
}

my Joiner[" "] $j .= new();
$j.join(["I" , "don't" , "like" , "Spam!"]).say();
型を指定する場合を含め、デフォルト値を設定してしまうこともできるようです。
role Plus[::T = Int]{
	method plus(T $a , T $b){
		return $a + $b;
	}
}

my Plus $p1 .= new();
$p1.plus(10 , 20).say();
# $p1.plus(10.5e0 , 20.5e0).say();	# エラー

my Plus[Num] $p2 .= new();
$p2.plus(10.5e0 , 20.5e0).say();
複数の型を取ったり、ジェネリックの型指定の中にジェネリック型を入れてみたり。
role Pair[::K , ::V]{
	has K $.key is rw;
	has V $.value is rw;
}

my Pair[Str , Int] $pair1 .= new(key => "version" , value => 6);
my Pair[Str , Int] $pair2 .= new(key => "id" , value => 42);
my Array[Pair[Str , Int]] $arr .= new();
$arr.push($pair1);
$arr.push($pair2);
for @$arr -> $p {
	($p.key ~ "=" ~ $p.value.Str()).say()
}

2016-06-19 の記事 - 2016-06-19
最近、Perl6のルートクラスである「Mu」の語源が「無」と知ってビックリ。Perl6の言語自体にもリファレンスにも、この手のお遊びが散りばめてあるのは確かで(リファレンスのサンプルコードで使われる数字が大抵「42」であるなど)、それ自体は別に良いのですが、習得コストが増加するのはいただけません。ルートクラス1つ取っても、「Object」と覚えておけば複数の言語で使えるわけですが、Perl6に関しては覚えなおさねばならないのですから。

それはそうと、ジェネリックス(テンプレート)的な機能。
sub flip(::T $a is rw , T $b is rw){
	my T $t = $a;
	$a = $b;
	$b = $t;
}

my Str $former = "latter";
my Str $latter = "former";

flip($former , $latter);

$former.say();	# former
$latter.say();	# latter
当然のことながら、こう書くとエラーが出ました。
my Str $strv = "latter";
my Int $intv = 10;

# flip($strv , $intv);	# エラー
型チェックが機能していることが分かります。

それでは、isaの関係にあったり、共通の親を持つクラスを使用した場合にはどうなるか。
class Base{
	method introduce(){
			return "Base";
	}
}
class Child1 is Base {
	method introduce(){
			return "Child1";
	}
}
class Child2 is Base {
	method introduce(){
			return "Child2";
	}
}

sub call_introduce(::T $a , T $b){
	$a.introduce().say();
	$b.introduce().say();
}

my Base $base .= new;
my Child1 $c1 .= new;
my Child2 $c2 .= new;

call_introduce($base , $c1);	# OK
# call_introduce($c1 , $c2);	# エラー
# call_introduce($c1 , $base);	# エラー
TがBaseとなれば、当然その子クラスも受け入れることができるわけですが、その逆は不可能。この辺は通常の型指定と同じです。この場合だと1つ目の引数で型が決定されているため、引数の順番によってエラーが出たり出なかったりして若干ややこしいですが。