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2017-01-21 の記事 - 2017-01-21
原作漫画版の「この世界の片隅に」は読了していましたが、このほど映画版を鑑賞する機会があったため、それについていくつか書いておきます。必要もなく詳細に踏み込まないように注意してはいますが、それでも内容に触れないわけにはいかないため、未読・未鑑賞の方はご注意ください。

映画自体は娯楽作品としてはよくできています。おおむね原作に忠実な映画化であり、素材(原作)が良質なため映画の質も高く、良作と言っていい作品です。ただし、私はこの映画について高い評価をすることはできません。
例えば、良質なバンズとレタス、トマトを使用し、肉を一切使用しないものが「ハンバーガー」と称して提供された場合、ハンバーガーが何かを知らない人なら十分に満足して食べることができるでしょう。ただし、ハンバーガーが何かを知っている人ならば、肉がないことに大きな不満を抱くのは避けられません。この映画はまさにそれであり、良質な野菜サンドイッチとして味わうことはできる一方で、原作からごっそり肉を抜き去ってしまった存在でもあるのです。

大きな変更点の一つに、遊郭関連のエピソードがごっそり削られていることがあります。ここは監督も残念と考えているそうですが、尺の都合で削ったとのこと。
漫画版では「代用品」などのエピソードがあるために、その後の水原とのやり取り、周作との関係も生きたものとなりますが、その辺がごっそり抜け落ちている映画では掘り込みが足りなくなっている印象は否めません。一言で言えば、各人の行動がやや駆け足的で突飛なものとなっています。
すずは確かに強い自己主張をするタイプではないながら、原作では細かな心情描写や遊郭関連のエピソードから個のある人間として描かれていますが、映画では原作と比較して意思が見えにくくなっています。周作もまた、原作ではこうしたエピソードによって人間らしさ、すずにとっての一種のわだかまりが描かれている一方で、映画ではあまり個性を見つけることのできない存在となっています。

ただ、削減に関してはまだ尺の都合と考えれば仕方がありません。長大で密度の高い原作を映画にしようとすれば、どこかしら削らないわけにはいかず、どこを削っても疑問の声が出るのは避けられません。一部が削られたことによって違和感が出てしまっている部分を、違和感を与えないように描写していない点については批判点かもしれませんが、これにしても原作を下手に改変するよりは良いとも言えますので、許容できる範囲ではあるでしょう。
しかし、終盤のすずの象徴的なセリフを改変したことには、「否」の評価を下すしかありません。この一点のみで、原作の根底に流れるものをぶち壊しにしてしまっています。

私が考えるに、この物語は大きく3つに分かれています。「戦前〜戦時中の日常」「負傷後の世界」「すずにとっての戦争が終わった後」です。
まず、戦争の影が徐々に忍び寄り、食糧事情は日に日に貧しくなりつつも、工夫を凝らして案外楽しく生活している部分。ここは漫画でも3巻中の約2巻を占めている部分で、中盤までの展開となります。家族が戦死したりはするものの、それにしても直接的な描写がなく、実は生きていてもおかしくないような認識となっているため、悲壮感はあまり描かれていません。
戦争も末期になると広島周辺も攻撃対象となり、たびたび空襲警報にさらされたり、建物疎開が行われたりもしますが、すずたち一家が暮らす建物は取り壊されることもなく、危機に対して深刻に悩むような描写もあまりなく、この時点でもまだすずは戦争状態の生活をそれなりに楽しく過ごしていきます。
しかし、終盤に入る時期になってようやく、すずは戦争というものに直面します。身近な人が死に、しかも自身も一生癒えない傷を負ってしまうのです。どこか戦争状態の生活を楽しんでいたような内容は、これを境に否が応にも戦争に直面したものへと変わり、原作ではゆがんだ絵なども用いられ、効果的に描写されています。
そうこうしているうちに広島に新型爆弾が落とされ、何か大変なことが起きたらしいという描写もなされ、実家がどうなったかもしばらく把握できない状況となります。
ここですずは、敵国の飛行機に対して「そんとな暴力に屈するもんかね」と口にします。すずにとっては自らは、敵国の理不尽な暴力によって攻撃された被害者なのです。憎むべき敵国によって攻撃を受け、親しい人を失った上に自分も大けがを負ったとなれば、このような認識に至るのは自然なことです。

それからまもなく終戦の日を迎え、すずたちは玉音放送により日本の降伏を知ります。
原作ではこの後、すずは自分の国が正義ではなかったことを悟り、自分たちが必ずしも被害者の立場ではなく、実は加害者でもあったことを理解します。今まで信じてきた価値観が完全に突き崩されてしまったわけです。原作のこれまでの様々な描写は、ここでの逆転のために積み上げられてきたと言っても過言ではないでしょう。
実際、この作品では常にすずの視点で物語が描かれており、ここまでに攻撃を受ける被害者としての視点はいくらでも出てきた一方、日本が他国への加害行為に出るような描写はありません。アジア各国の人々や、敵国に対する差別憎悪的な表現すらもなされず(*)、すず本人も読み手も終戦の時まで加害行為を実感することはありません。今まで見てこなかったものの存在を、すずは敗戦の時になって悟ることになったわけです。ここが物語中の2つ目の区切りであり、すずにとっての「戦中」と「戦後」を分ける線であるものと、私は考えています。
ところが、映画ではこの描写が完全に改変され、別物となっています。原作のすずはおぼろげにでも自分たちの加害性を認識し、それに直面した上で嗚咽した一方で、映画版のすずはあくまで被害者であり、戦争にしっかり向き合うことは最後までできませんでした。
この一点により、原作と映画のベクトルは全く異なったものとなっています。

(*)現実には戦前から戦中に至るまでアジア諸外国への蔑視や差別の意識はありましたし(現在まで残っているのを見れば一目瞭然でしょう)、当時の婦人誌は「アメリカ人をぶち殺せ」などと記載したりしています。当然、戦時下の日本では米国ら他国に対する憎悪扇動的なスローガンなども用いられていたはずですが、すずは「まだ左手も両足も残っとるのに」となんとも大日本帝国らしいことを言って降伏に対して納得できない気持ちをあらわにするものの、憎悪扇動的な文言は作中に登場しません。
つまり、本土においても加害性を持った要素はいくつも存在したはずですが、こうした情報が出れば読み手は加害性を嫌でも認識することになりますので、すずは作中において、加害的な要素からあえて隔離されていたわけです。

監督は以下の記事において、この描写の改変をした理由を語っていますが、ある意味で非常に腑に落ちるものではありました。

11/12(土)公開『この世界の片隅に』(原作:こうの史代 監督:片渕須直)

>それまでのすずさん自身が、朝鮮の方に暴力を振るっている場面があったか?というと無いんですよ。そういうところを彼女は目撃もしていない。なのに、すずさんが突然そんなことを言っても、拳を振り上げて戦争反対と言っている姿勢とあまり変わらなくなっちゃうような気がして。

なるほど、「拳を振り上げて戦争反対と言っている姿勢とあまり変わらなくなっちゃう」、それが改変の動機ですか。映画のすずのルーツがなんとなく分かったような気がします。
現状の日本では、諸外国の人々を差別し中傷するような自称言論が平然とまかり通っているばかりか、大日本帝国は諸外国に対する加害側であったにもかかわらず、被害者ぶろうとする言説すら横行しています。南京問題、慰安婦問題なども含め、その実例はいくらでも挙げることができます。
映画で描かれたすずはまさに、この日本の価値観が投影されたキャラクターなのです。終戦当時の日本人がどれほど自分たちの加害性を認識していたのかは、当時を生きていない私には分かりません。ただ、少なくとも現状の日本における意識は加害性を軽視する側に立っており、そういう意味では原作のすずこそ異端的な存在であり、映画のすずが標準的な存在であるともいえるのです。
すずは確かに、直接他国の人々に加害行為を働いたわけではありません。先に述べた通り、作中でのすずは加害行為的なあらゆるものから完全に隔離されています。だからこそ、すずの過酷な体験は非情な理不尽さ、強烈な被害者意識として結実し、読み手にも強烈な印象を与えるのであり、その強烈な被害者意識があるからこそ、終戦の場面において自分も加害者の立場にあったという大逆転、終戦と同時に自分の中での戦争もまた崩れ落ちるシーンが生きてくるのです。もしすずが他国の人々に直接的に加害行為を働いていたならば、敵国に被害者意識を抱いたとしても身勝手なものとしかみなされないでしょうし、価値観の崩壊も当然の結末としかなり得ません。
自らに直接加害の体験がないからこそ、読み手に強烈な印象を残す価値観の崩壊」を原作では余すことなく描き切り、自国から正義が飛び去る認識や、自らの加害を悟ったことにより、実際の戦争と同時にすずの中での「戦争」にも決着をつけました。それを、映画では「直接加害の体験がない」ことを理由に排除し、終戦はただの終戦というイベント以上の結果を描くものとはなりませんでした。
映画は全体的に原作に忠実に描かれていますが、ここはあえて原作が大きく改変された数少ない部分の一つです。となれば、監督としてもこだわりはあったのでしょうし、またここに賛否が集中するのもまた当然といえるでしょう。そして私は、すずの中での戦争を描き切った原作を強く支持します

と、ここまで書き終えてから読んだインタビューがこちら。どうやら本当に、あのシーンにおける映画のすずは「日本の価値観が投影されたキャラクター」で間違いなかったようです。

『この世界の片隅に』片渕須直監督インタビュー前編「この空間を想像力で埋めてはいけないと思った」

>庶民の側には、普通に国が戦争をやってるからくっついていっただけ、みたいな感じがある。庶民は「アメリカのほうが科学力や物量に優れていて、単純にそれで負けた」と思っていて、実は「正義」とかっていう言葉は入ってきようがない。まだ、きちんとした認識が生まれていないんです。なので、すずさんが生活者視点でそういった意識に近いことを気づくとしたら、どういった言葉になるのか? と考えて、セリフを変えています。

さすがにあり得ません。これには唖然としました。
敵国の飛行機に「暴力に屈するもんかね」と言ったり、降伏に対して怒るシーンがあるように、すず自身は一種の信念を持った人物です。すずはある意味で自国の正当性のようなものを信じていて(たとえそれが苦境の自分を支えるためのものであれ)、日本が加害者であるとは認識せずに(すず視点の作品中において、加害の要素は実際にほぼ描かれずに)戦中を生き抜き、負傷して親しい人も失い、「不当な暴力の被害者」となったのです。この信念が玉音放送のその瞬間まで続いたことは、「左手と足」の発言を見ての通りです。
それなのに国はあっさり降伏し、しかも実は日本が加害者であることを認識したならば、「言っていることが違うじゃないか、やっていることが違うじゃないか」と嘆きたくなるのも無理のないことでしょう。この価値観の根底からの崩壊を描いたシーンがまさに、「正義が飛び去っていく」〜「暴力」のくだりです。
そもそも「庶民は物量と科学力の差で負けたと考えていた」からと「あのシーンから正義の語を排除する」という発想自体があんまりですが、加えて作中のすずは上記のような行動に見られるように、すずなりの思考を持ち、また厳しい体験もしています(これは読み手も追体験しています)。それを、すずというキャラクターは原作のままに、終戦の時の総括だけを「物量と科学力で負けた」と考える庶民の声とやらにすり替えてしまったのです。映画のあれはもはや、すずが発した言葉ではなくなっていたのです。
どうやら、私が映画に抱いた印象は間違っていなかったようです。すなわち、やはり映画のすずは物語の最後まで戦争と向き合うことができなかったのです。なぜならば、自分が抱いてきた信念の崩壊に対し、自分の言葉で総括する機会を、映画のすずは持つことができなかったのですから。
もしこの映画の監督が庶民の声で総括をさせたかったのであれば、「この世界の片隅に」のすずをその道具とするのではなく、当時の庶民を平均化したような行動パターンと思考、性格を持ったキャラクターを作り、それを主人公とした映画を撮るべきでした。もしそういうキャラクターが主人公ならば、あの終戦のシーンは強い意味を持ってくるでしょうし、逆に原作のすずのような言葉は違和感のあるものとなるでしょう。

原作のすずが終戦と同時に自分の中の戦争を終わらせ、戦後の世界を生きていくのに対し、映画のすずはおそらく、以後もおぼろげな戦中を生きていくのでしょう。
素材が優れているだけに、映画は消化不良気味で惜しい作品です。削りは仕方ないとして、改変がなければ十分素晴らしい作品になっていたはずです。
映画だけを鑑賞した皆様におかれましては、ぜひ原作を読むことをおすすめします。