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2017-07-02 の記事 - 2017-07-02
なぜ声をあげた障害者がバッシングを受けるのか?バニラ・エア問題、本当の争点はどこにある

バニラ・エアに事前連絡したが乗れなかった車いす女性

どこかで見たような問題ですが、それもそのはず。なにしろ日本社会は何度も何度も何度も何度も似たような問題を繰り返してきたのですから。
反差別カウンターへの批判、デモへの批判、「保育園落ちた日本死ね」への批判などは、どれもこれも本件と極めて類似した構造を持っています。また川崎バス闘争など、公共交通機関のバリアフリー自体がこのような方法で勝ち取られてきた経緯があります。

本件を「やり方が悪い」などとしてつるし上げ、糾弾する者がいますが、ならばその者は自らが考える「正しいやり方」を実行し、それによって障碍者と健常者の間にある差を縮めるなり、問題を可視化するなりしておけばよかったのです。この問題が発生するまでに実践する時間はいくらでもあったはずですし、それをしていれば当事者自らが行動を取る必要もありませんでした。
また、障碍者・バリアフリーの問題はこれで終わりではなく、今後とも社会の重要なテーマであり続けますから、今まで何もしなかったことはもう仕方ないとして、今後は「正しいやり方」を用いてバリアフリーを推進すればよろしい。きっとその「正しいやり方」によってさぞや目覚ましい成果を上げてくれることでしょう。
なお、1人の人間が持っているリソースは有限ですから、社会にバリアフリーなどの問題にかかわらない人が存在すること自体は仕方がなく、直ちに責められるべきものではありません。ただ、それなら障碍者が行動を起こした場合にもその方針を貫けば済む話であって、頼まれてもいないのに「やり方が悪い」などとつるし上げることで能動的に問題にかかわるという選択を自ら望んで行った以上、その者には当然、「正しいやり方」を実践することが求められます。
無論、以上は糾弾者の大半がそんなことをするわけがないと分かった上で言っています。自分は何もしないくせに一人前に文句だけは言う人間の望み通りにしてあげたとして、それによって彼らが障碍者の側に立って行動することは決してありません。なお、自分は活動を行っていて、かつ今回の件に懸念を示している人にはお気の毒としか言いようがありませんが、そうした人の割合は少数であろうことは想像に難くありません。

本件について、問題提起をした人が活動家であるなどとして非難する動きもありますが、同じことでも活動家のAさんがやった場合には問題にするが、道の端っこを歩いているしおらしい障碍者のBさんがやったら許してやるとでも言う気でしょうか。また、当事者は自分たちの立場を向上させるための活動をしてはいけないのでしょうか。そのような遠回しな言い方などせず、「障碍者は健常者様に注文など付けず、道の端っこを歩いてろ」とでも本音を言った方がまだ潔いというものです。
もし問題提起者の主張なり思想なりが気にくわないとして、それを批判するのは言うまでもなく自由です。それが属性への攻撃の要素を含まない限り、単なる批判であって必ずしも差別とはなりません。ただし、「自分が気にくわない者であれば、障碍を理由に排除・否定されても構わない」なる理屈を認めることは断じてできません。
「障碍者優遇」的な言い分に至っては論外。問題提起者が「障碍者にはキャビアと高級ワインをよこせ」などと言ったなら不当な要求でしょうが、実際には「搭乗」を求めて得ただけです。バリアフリーなどの是正策が実現されたとしても、それは障碍者にとっては「どんなに良くても健常者と同等、通常はそれより不便な範囲において、施設内の移動やサービスの利用ができる」程度のものであって、当然ながら健常者以上の利得が得られることはありません
また、実際にバニラエア側も対策を打ち出したように(それ以前から対策を進めていたとの情報もありますが、いずれにせよ合理的な範囲での対策であることの証明ではある)、必要となる対策は合理的・常識的な範囲のものでしかなく、実現困難で不合理な対処が求められているわけではありません。通常の航空会社ならともかくLCCだから配慮の必要はないとの意見もあるようですが、通常航空会社なら差別はいけないが格安なら差別をしてもいい、などという理屈はどこから出てくるのか、理解に苦しみます。

そして前述の通り、これは日本社会において何度も繰り返されてきたことです。
例えば保育園問題では、批判者はそれまでにいくらでも活動をして問題の解決を試みる機会があったはずですが、実際には何もしませんでした。また、強い言い方がなされる以前には、より穏健な言い方で何度も問題提起がなされてきていますが、やはり批判者は何もしませんでした。そしてとうとう、「保育園落ちた日本死ね」が社会的な注目を集めるに至り、批判者は何もしないくせに批判だけは一人前に行い始めました。
より穏健な言い方で問題提起がなされている時点で何もしなかった人間が、「保育園落ちた日本死ね」に対して「言い方が悪い」と文句をつけるのは質の悪い冗談でしかありません。結局、「良い言い方」を用いようが「悪い言い方」を用いようが、批判者は批判以外は何もしないのです。
反差別カウンター問題でも同様で、よく「あんなやり方ではダメだ」と文句をつけてくる者がいますが、そうした人物が「ダメではないやり方」によって差別と対峙することはまずありません。もしやり方が気に入らないのであれば、自分が正しいやり方を用いて差別を解消すればよく、そうなれば誰も「ダメなやり方」などする必要はなくなりますが、批判者は反差別側に文句を言う以上のことは決して行いません。
差別者と反差別者に対する「どっちもどっち」論もまたこの類型です。別に「どっちもどっち」でも構いませんが、それなら差別・反差別の争いという点においては少なくとも差別側も同罪、かつ差別側は被差別者を一方的に攻撃しているわけですから、その分も足さなくてはいけません。しかし、「どっちもどっち」論者はほぼ間違いなく反差別側を一方的に攻撃し、差別側にそれと同等以上の攻撃を加えることはありません。
「保育園落ちた日本死ね」は日本社会に対する強力な問題提起となり、カウンターは差別デモを規模・回数ともに大きく縮小させるなど、現に成果を上げました。一方、批判者の望むようにふるまったところで彼らは何もしませんから、聞き入れていれば単に問題解決が遠のいていたでしょう。

デモとは何か。カウンターとは何か。本件や保育園問題で問題提起者が行ったのは何なのか。早い話が、ピエロ役を買って出ることです。
自ら体を張って汗を流して、それで得られるのは嘲笑、中傷、罵声、批判のみ。無様なものです。しかし、公民権運動から障碍者差別、人種差別の問題に至るまで、ピエロがいなければ世の中は変わらなかったでしょう。
そして、そのいずれの場合においても、ピエロをバカにする人間が何かをしたことはありません

なお、障碍者やその他のマイノリティに対して合理的な配慮ができる社会、あるいは不当な差別的言動がなされない社会は、健常者にとってもフレンドリーになることはあれ、その逆はまずありません。また、人間はいつでも病気やケガなどで弱者の立場に置かれる可能性がありますし、誰でも生きていればいずれ老います。また、仮に健康は維持できても、社会的立場は時の社会情勢によっていくらでも変動します。
「障碍者叩き」は実際には、「他人をも巻き添えにした自分叩き」に他なりません。